池上本門寺で祈る

日朝堂

このお堂は、常唱堂・題目堂といろいろに呼ばれていますが、一般には日朝堂の名前で親しまれています。
日蓮聖人(1222-1282)は、お題目を唱えることを、ご自身の身命を投げ打って私たちにお教え下さいました。私たちは清浄な心で熱心にお題目をお唱えすることにより真実の生き甲斐を感ずるようになります。
このお堂は本門寺の境内に古くからありました。享保10年(1725)ごろの本門寺絵図にも現在の位置に常唱堂と書いてあります。昭和20年(1945)4月15日に本門寺全山は大空襲を受け、その時に常唱堂も焼失しました。そのお堂は寛政11年(1799)に加藤甲斐守が建造したものでした。現在のお堂は、昭和47年7月25日に多くの信者の丹精によって新築されました。
このお堂のご本尊は大曼荼羅で、その前に行学院日朝上人の尊像が安置してあります。


日朝堂の場所は「境内案内」をご覧下さい

日朝さま

日朝さまは、身延山久遠寺第十一世行学院鏡澄日朝上人という学徳兼備の名僧で、身延一山だけでなく、宗門全体から中興の祖と仰がれています。
日朝上人は日蓮聖人滅後第百四十一年の応永29年(1422)1月5日に伊豆の宇佐美(現・静岡県伊東市宇佐美山田)にお生まれになりました。現在同地にある朝善寺はその旧地です。
日朝上人は8歳の時に三島本覚寺の日出上人のお弟子となり、武州仙波(川越)、比叡山、奈良、京都の各所に遊学し、日蓮宗の教学はもとより仏教各宗の教義を深くお勉強になり、寛正3年(1462)、41歳のとき身延山の第十一世をお継ぎになりました。身延山の諸堂は西谷にありましたが、日朝上人は文明7年(1475)に今の地に移し、身延山が今日の隆盛をみる基をお築きになりました。
日朝上人は明応8年(1499)に東谷の行学院(現在の覚林坊)にご隠退になり、翌9年(1500)6月25日に79歳でお亡くなりになりました。

池上本門寺第八世大運阿闍梨日調上人(1428-1501)は日朝上人と道交が厚く、寛正2年(1461)6月から7月にかけて日朝上人を、本門寺と両山一主である鎌倉比企谷妙本寺にお招きして法華経のお講義をお願いしたり、お弟子で後に本門寺第九世となりました恵眼院日純上人(1482-1550)を日朝上人にお預けしたりしました。
日純上人は晩年に視力が衰え、日朝上人から賜ったご本尊に祈願しましたところ、忽ちに平癒しました。
この因縁によって池上の常唱堂で日朝上人の尊像を拝んでいるのです。

身延山第三十六世六牙院日潮上人(1674ー1748)は、日朝上人が
“六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のうち特に眼根に障害があると仏教修行の妨げとなる。自分はこのことを実際に経験したので、死後、眼病の人を守護することを誓う” と仰せになったとお書きになっております。誠に尊い極みであります。
常唱堂には、いつとはなしに池上近在のお年寄りが集まってお題目の修行を励むようになり、お堂も在家の信者によって運営されるようになりました。
最近では学業増進を祈願する若い人びとの参詣も増えております。それは、日朝上人が『補施集』をはじめ四百五十余巻に及ぶ多くの著書をお残しになった大学者であったからです。

年中行事
新年祈願会 1月1日~3日
御奉謝会 1月13日
節分会 2月節分の日
千部会 4月27日~29日
日朝上人大祭 7月25日
御会式 10月11日~13日

浄行菩薩
お堂の向かって左にお立ちになっているのは浄行菩薩です。
お釈迦さまは、ご自分がお亡くなりになったのち二千年を過ぎると、末法という時代になり、ご自分のお説きになった正しい教えが滅びてしまうとご心配になり、その時のために、上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩をば法華経を弘める導師とお定めになりました。日本の歴史を理解するのには、この末法ということを知っておかなければなりません。人びとは永承7年(1052)に末法に入ると信じ、生活の仕方もそれに大きく動かされました。
浄行菩薩は水の徳を顕す菩薩で、特に一切の穢れを清めることを行としております。私たちは、お題目を唱えながら菩薩を洗い浄めることによって、この菩薩の行をお助けすることになり、その功徳によって私たちの穢れを除くことが出来るようになるのです。