はじめに

このページは『寺庭婦人はんどぶっく』(日蓮宗宗務院・お題目総弘通運動推進本部発行・平成11年3月31日)を、ウェブサイトとして抜粋・改訂・再構築致しました。寺庭婦人・寺族の皆様は、このサイトを十二分にご活用戴き、宗門運動への益々のご尽力とご精進をお願い申し上げます。

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(最終更新日:2022/11/15)

第1章 日蓮宗の教えと寺庭婦人

第1節 日蓮宗の安心と寺庭婦人

「安心」は仏教的には「あんじん」と読みます。普通、心配ごとがなくなって「やっと安心した」などという場合は、「あんしん」と読みますが、仏教の安心は「あんじん」で「あんしん」とは意味が異なります。「あんじん」とは、仏様のお言葉に素直に従うことができ、心穏やかに、何からもわずらわされることのない、平安な心の状態をいいます。これは仏教が目指す心の在り方であり、いずれの宗派でも、この境地を目指して教えを説き、修行をしているのです。
それでは「日蓮宗の安心」とはどういうものなのか、個人の安心・家庭の安心・社会の安心の順でお話を進めていきたいと思います。

1.個人の安心

身勝手な心

 人の一生には、困難な出来事に直面したり、様々な浮き沈みがあるばかりでなく、自分の心の中でも、際限なく涌き出る欲望に迷い悩むことが多いようです。ですから、日々、満たされない心で生きてい私たちは、何か絶対的な、変わらない境地、豊かな心の世界を求めるのです。そこに宗教としての大切な役割があるのですが、苦しくなった時にだけ仏様に助けを求めるのは、人間の身勝手さと言えます。仏様は、頼んで何かしてもらおうとする存在ではなく、教えにより「安心」へと導いてくださる存在なのです。

豊かな心

 日蓮聖人は数々の迫害(法難)を受け続けられた御一生でした。身延におられた晩年に「心やすく法華経を読誦し」と仰せられていますが、その時でさえ、遠方のお弟子や信者に対する迫害に心を痛め、いろいろと御指示をなされていたようです。それでいて日蓮聖人ほど大安心を得られた方はいないでしょう。それでは、その安心はどこから生まれたものでしょうか。日蓮聖人はお弟子に「ともかくも法華経に名をたて、身をまかせたもうべし」と示された通り、御自身も法華経に身を任せられ、その信心の世界に安住せられた結果、大安心を得られました。
 私たちがお預かりしているお寺は、日蓮聖人や先師が築き上げられた歴史の上に成り立っています。まず、このことを理解し、仏様や法華経への信心を持って生きていかなければなりません。ここに「個人の安心」すなわち、私たちの安心があるのです。

2.家庭の安心

個人の安心と家庭

 私たちは、当然、一人で生きている訳ではありません。
親子や夫婦などが家庭を築き、その家庭が集まって社会を構成しています。ですから、家庭は社会を構成する最小単位であると言えます。その最小単位の家庭で問題を抱えていては、自ずと周囲に影響を与えてしまいます。ことにそれがお寺の家庭である場合は、一般よりも厳しい目で見られてしまいがちです。
 それでは、個人の安心が家庭の在り方にどう反映されるのでしょうか。
家庭ではそれぞれの立場、夫には夫の、妻には妻の、子供には子供の立場があって、それに応じた意見や言い分もあります。ですが、各々がそれを主張するだけでは、食い違いや衝突を起こして家庭は直ぐにバラバラになってしまいます。そこで重要になってくるのが、正しい信仰なのです。仏様や法華経への信仰は個人の安心をもたらします。それと同時に、正しい信仰はそれぞれの立場を越えた共通の支え「共通の価値観」となるのです。家族を支える背骨の役割となると思っていただければ分かり易いと思います。
その「共通の価値観」を背骨として、それぞれにお互いの役割を全すれば、自然と円滑な関係が生まれ、そこに「家庭の安心」が成り立つのです。これは、財産豊かな生活からくるうわべの安心とは質的に異なったもので、正しい信仰なしには到底つくられるものではありません。
ですから、本当に生きた仏様のみ教えを捉え、身をもってそれを実践された日蓮聖人の、その尊い法の血脈「信仰のいのち」といったものを代々受け継いでいる寺族は、そのことを強く意識することが求められます。
信仰心豊かな寺族が心安らぐ家庭を築くことは、周囲の家庭にもよい影響を与えることになります。

寺庭婦人が作る家庭の安心

 寺庭婦人には、子弟たちに信仰に根ざした正しい生き方と誇りを持たせることが望まれます。ことに仏教の正しい知識の手ほどき、信仰の正しいあり方を授けてほしいものです。そして家庭を明るく、信仰心豊かで心地良い場所となるよう努力していただきたいと思います。
お寺の子というものは、周りから受ける過大な期待から、とかく様々なことに悩みがちです。しかし、お寺の子だからといって無理にお坊さんになる必要はありませんし、それぞれの才能に応じて伸ばしてやることは、親の責任でもあります。お坊さんにすることよりもまず大切なことは、お寺の家庭で育つ子には、一般の家庭にない「信仰のいのち」を身につけて欲しいと思うのです。たとえ寺族から一般の職業に就く人が出たとしても、「さすがはお寺の子だ」といわれるようになって欲しいと思います。
つまり、住職とその妻の保つ正しい信仰が結実し、それが「家庭の安心」となって生活態度に表れ、一般家庭の子供たちとは異なる人柄を作り上げると思うのです。その結果として、子弟が法の血脈を受け継ぐ自覚と誇りを持ったお坊さんとなれば、これに過ぎたる事はありません。
お寺が家庭化した今日では、これこそが寺庭婦人が作り上げる「家庭の安心」であり、それは同時に一般社会へと繋がる何よりの布教になるのです。

3.社会の安心

お寺と社会

 では、「家庭の安心」が社会の安心にどのように繋がるのでしょうか。さきほど「家庭は社会の最少単位」だということを申し上げました。お寺といえども、決して例外に属するものではなく、社会の一部なのです。そしてお寺を支える檀信徒は最も身近な社会なのです。信仰的つながりの上での檀信徒がいる以上、お寺はいっそう社会的に期待され、同時に責任も重い立場なのです。檀信徒にはいろいろな考え方の人がいて、一様に接するわけにはいきませんが、信仰的なつながりにおいては、良き話し相手、良き信仰的伴侶となる必要があると思います。日蓮聖人は、「女人となることは物に随いてものを随える身なり」と仰せられました。これは夫に対する妻の道をお示しになったものですが、檀信徒という対人関係においても、そこに生ずる諸問題においても、寺庭婦人は、このことを十分考慮していただきたいと思います。

安心の反映

 寺は、その土地のいろいろな公共団体、公共活動に関係することが多いものです。そういうときは寺庭婦人の役割も大変重要になってまいります。また、地元の日蓮宗寺院の活動でも、最近殊に寺庭婦人が活躍する範囲が広まってきました。その際にも、信仰に根ざした人柄というものが、対人関係にも反映されると思います。ご承知のように、日蓮聖人の宗教理想は「立正安国」であり、日蓮宗の信仰は個人や家庭の安心にのみにとどまることはありません。このような高い理想も、実は皆さんの、地道な努力から築き上げられていくものだということを十分ご承知おき願いたいのです。「社会の安心」を願われた日蓮聖人の理想は、住職はもとより皆さんの力が必要なのです。


第2節 ご回向の意味

 お寺は、布教道場です。単に法要葬祭の会場ではありません。しかし法要葬祭も大切な布教の一部であり、法要葬祭は「回向」を基にして行われます。では「回向」とはどういう意味か、なぜ行われるのか、といったことをお話したいと思います。

回向とは

 「回向」とは、古代インド語のパリナーマを訳した「回転趣向」を縮めた言葉です。自分の一切の善根功徳を転じて他に回し向けるとの意味で、自分が得るべき利得を他者の利得とする行いが、回向なのです。
 ですから、仏教でいう回向とは、一般に考えられているような、死者に対する慰霊だけではありません。住職が朝の勤行でご本尊に向かい、仏祖三宝に感謝を捧げ、立正安国・世界平和を祈願するのも回向です。また、読経の功徳を他者の功徳することによって、檀信徒の健康や子供の交通安全などを願うことも回向です。つまり、回向とは、人のために尽くし常に他者のために良き計らいをしようとする菩薩の行いなのです。ですから、「ただお経を唱えてお布施をもらっているだけ」とか、「坊主丸もうけ」などと軽蔑されるようなものではありません。どうか寺庭婦人の方は「回向」というものの意味を理解し、檀信徒の方々にも十分伝えていただきたいと思います。

追善の回向

 回向について語れば、今日ではほとんど亡くなった方の回向に限られているように解され、そこで亡くなった方の魂があるのか、ないのか、ということが問題にされます。
 昨今では科学的に証明されなければ、それはないものと思ってしまう風潮があります。しかし、私たちは、法華経、日蓮聖人の教えにしたがって、精霊を認めています。それは実証的にではなく宗教的直感においてです。法華経を拝読していると、仏様(お釈迦さま)は、過去のことを詳しくお説きになっているかと思うと、未来のこともしばしばお説きになっています。
 たとえば第三章の『譬諭品』では「法華経を信ぜず誹謗する者、一切世間の仏種を断ずるものであって、のちには阿鼻地獄に入るであろう」と説き、第二十章の『常不軽菩薩品』では、「不軽菩薩(お釈迦さまの過去のお姿としての菩薩)をばかにして軽しめ、迫害を加えた者たちは、その罪によって千劫も長いあいだ阿鼻地獄に墜ちた」と説かれています。つまり、因果ということを非常に重んじ、過去の因によって今の果を生じ、今の因によって未来の果を招くということは、必定であると教えられています。ですから日蓮聖人は、ご法難にあわれた時、「日蓮が今生の苦は、過去世で法華経を謗った罪の招き出したものだ」と受けとめられ、「現在は見えて法華経の行者なれば、未来は決定して本仏釈尊のまします道場にまいる(霊山往詣)であろう」とも仰せられています。
 そうしてみると、私たちも法華経の信仰をたもっていられるのは、過去の善根功徳のたまものであり、現在なまはんかな信じ方では法華経のご精神に背いて未来の「霊山往詣」は疑わしいかも知れません。法華経の教えのもとに生活させていただいている私たちは、後生は本仏の道場へまいれると信じなければなりません。また檀信徒といっても本当に法華経のありがたさも知らずに、信仰にも入っていなかった人の場合は、その人がどういう果を招くかを教えなければなりません。日蓮聖人も、亡くなられた恩師道善御房に対して『報恩抄』をお書きになって、ご回向されています。私たち日蓮聖人の流れをくむ者は、日蓮聖人のように信じ、日蓮聖人のように生きていくべきだと思います。


第3節 寺庭婦人の心がまえ

寺庭婦人の役割

 住職は、とかく公私の用が多いものです。そこで住職の仕事をよく理解し、その精神的支えとなっていただくことが必要です。精神的支えというのは、住職が布教のために公私とも活動できるように協力してあげることです。お祖師さまは、「夫たのしくば、妻も栄ゆべし」(兄弟抄)と仰せられています。

檀信徒の相談相手に

 もう一つ大事なことは、寺庭婦人は、檀信徒に接する機会が多いことです。檀信徒に対しては、ときによっては、住職よりも、寺庭婦人の影響力が大きい、ということもあります。檀信徒は、悩みによっては、住職に相談するのが恥ずかしいからといって、お寺の奥さんの方にお話をもってくることがあります。そういうときには、よき相談相手となってあげることです。奥さんの方が話しやすいということは昔からもいわれていることで、お寺と檀家とのつながりにおいて、寺庭婦人の役割はまことに大きいものがあります。しかし、寺庭婦人は必ずしも専門的に仏教や宗義のことを学んでいるのではないから、そういうことで話相手にはなれないとお考えになる必要はありません。簡単なことでの信仰相談、お友だちになってあげていただきたいものです。むしろ檀信徒の良き相談相手になって頂きたいのです。

四無量心の心がけ

 四無量心とは「慈無量心」「悲無量心」「喜無量心」「捨無量心」です。「慈無量心」というのは人によく楽を与えることで、布施の心と通じます。年々風水害などで甚大な被害をこうむる日本では、そのつど、いろいろ救援物資を送るということが行われてますが、そういうときには率先して協力する、ということもこの心です。個人の場合でも、常にこの心をもって温かくあたることが大切です。「悲無量心」というのは、人の苦しみを除いてあげることで、他人の悩んでいるときには、少しでもその人の苦をやわらげてあげることをいいます。「喜無量心」というのは、人が苦から離れることができ、楽なったことを喜ぶ心ですが、他人の幸福をともに喜んであげる心、人間には他人の苦労に同情する心は持ち合わせていても、他人の喜びを自分の喜びのように喜んであげる、という心はどうも乏しいようです。「捨無量心」というのは、怨親平等の心で、この「怨」を捨てることをいいます。つまり、自分が心よく思っていない人に対しても、その「よく思わない」「うらむ」という気持ちを捨て去ることです。
 この四無量心は特に実行していただきたい心がけです。寺庭婦人は多くの檀信徒に接する機会が多く、そのなかには好きな人も嫌いな人もあろうと思います。そういうときにこそ、この四無量心を思い出し、仏さまの教えの万分の一でもよいから実践していただきたいと思います。そうすることによってはじめて、理想的な日蓮宗のお寺ができ上がっていくのです。


第4節 寺庭婦人のあり方

寺庭婦人のあり方

 浄土真宗の場合を除いて、僧侶の妻帯が許されたのは明治五年(1872)のことですが、この明治政府の処置は、廃仏毀釈の嵐で弱まった寺院の影響力と、仏教僧侶の頽廃に拍車をかけて、国教としての神道を強化していこうと考えた下心ある宗教政策でもあったのです。〈寺庭〉というものは、その成立の時から多くの問題をはらんでいたわけです。明治の著名な僧のなかには、妻帯しても妻の入籍は許さず、その子供が妻の姓を名のっていた例もあります。また、明治生まれの女性で幼児の頃は髪を短く刈って男子として育てられた方もおられました。寺に幼い女子がいることは住職が妻帯していることを意味し、それをはばかってのことでした。
 寺庭婦人の地位は長い間僧侶の宗教活動の影にかくれていたのです。そして、寺庭婦人の先覚者たちは、多くの努力と苦心をかさねて来られ、今日の寺庭婦人のあり方の基礎を築いたのです。こうした寺庭婦人としての先覚者の苦労を、今日の寺庭婦人の方々は、忘れてはならないと思います。

公的なものとしての寺院の性格

 お寺というものは、いかなる場所なのでしょうか。最近では世襲化(自分の子供に寺を譲ること)がすすみ、寺庭婦人のなかにはお寺が一般の〈家〉と変わらないものであり、財産相続が可能なものと思っている方も少なくありません。しかしこれはあやまりです。税金の面ひとつみても、一般の事業や資産にかかってくるのとは違って、宗教法人は原則として課税の対象とされません。これは公益法人で、公的な社会的資産であるからです。お寺は一般の住宅ではないのです。お寺は宗教活動の場として、公に認められ、その役割を果たすべき存在なのです。さらに、そのお寺が〈日蓮宗〉に属しているかぎり、日蓮宗の伝統とその規則を重んじていかねばならないのです。日蓮聖人がご在世の時、庵を結び、そこで弟子と信徒の教育をなされ、教主釈尊へお給仕なされたあり方が、日蓮宗のお寺の原形であります。

寺庭婦人の立場とは

 本来、仏教では〈僧〉とは出家のことであり、在家と区別されてきました。今日のような〈僧〉のあり方は、百年余に充たない歴史しかないのです。妻帯した親鸞上人はこのような立場を〈非僧非俗〉といいました。日蓮聖人は、富木常忍のことを「身は俗に非ず、道に非ざる禿居士」(忘持経事)と呼ばれましたが、今の〈僧〉は、この〈禿居士〉と似ているのです。在家的性格を強めてきたことは疑う余地がありません。佐渡で阿仏房とともに日蓮聖人につかえた千日尼のような至心給仕の心と、法華経に帰依する純一な信心こそ、寺庭婦人の尊いお手本なのです。日蓮聖人は婦人の立場についての教えを多く示されておられます。
「男は柱の如し、女はなかわ(横木)の如し。男は足の如し、女は身の如し。男は羽の如し、女は身の如し。羽と身と別々に成りなば何をもってか飛ぶべき」(千日尼御返事)「女人となる事は物に随いて物を随える身なり」(兄弟抄)「箭の走る事は弓の力、雲のゆく事は竜の力、夫の仕業は妻の力なり」(富木尼御前)などの多くのご文章を遺されています。それは夫にただ従属するのではなく、お互いに扶けあうべき立場を示されたもので、今日でもこのお言葉は寺庭・家庭を問わず夫妻のあり方として生きているのです。家庭が日蓮聖人の伝統を受け継ぐ寺院に現れて百余年を経たわけですが、寺庭のあり方については今後もっと心を配らなければならないでしょう。

子弟の教育と婦人の立場

 〈寺庭〉は住職と妻だけによって成りたつものではなく、血を分けた子供と、そして法を伝える弟子とが入ってくるのです。たとえ血を分けた子供であっても法を伝える、日蓮聖人の弟子となるには、血筋とは関係なく住職の弟子とならなければなりません。
 昔はすべて師と弟子という関係によって法灯は伝えられて来たのです。在俗の家その他から、弟子となって寺に入り、住職につかえる者が寺に起居をともにすることはしばしばあることです。ここで考えなければならないのは、血を分けた子と、この法を伝える弟子との関係であります。弟子は単なる使用人ではなく、日蓮聖人の弟子となり、法を伝えるべき道を選んだ者なのです。血を分けた子と平等にあつかうというような単純な問題ではありません。僧となる修行がともなわなければならず、しかもその教育の責任は住職にあると同時に寺庭婦人も分かち受けもたなければならないと思います。血を分けた子を弟子とする場合も同じです。そして今日、宗教家となる道はきわめて厳しいものがあるといえます。僧は人生の助言者であると同時に、信仰の導き手でなくてはなりません。お坊さんにでもなろうかとか、お坊さんにしかなれないなどという言葉が語られることは嘆かわしいことです。真に日蓮聖人のご精神を伝え、現代の人々の苦悩を救う導き手となる願いをもった子弟を養育しなければ、宗門の発展はありえないのです。そのために果たすべき寺庭婦人の役割は重大であるというべきでありましょう。

第2章 信行とお給仕

第1節 お給仕の心がまえ

お給仕のあり方

 ご本尊へのお給仕は出家であれ在家であれ、法華信仰に生きるすべての人に要求されるものですが、お寺に生活する人にはおこたる事なくご本尊にお給仕する固い心がまえが要求されます。本堂の荘厳・整備は本来、住職のつとめですが、実際には寺庭婦人の日常の仕事の一部ともなっています。
 いうまでもなく、本堂はご本尊をおまつりするお堂で、お祖師さま「生身の釈尊」といわれたように、久遠実成の釈迦牟尼世尊が在ますところですから、いつも清潔で厳粛でありたいものです。

ご本尊へのお給仕

日蓮宗のほとんどのお寺は木像のご本尊を奉安しています。その形式には大曼荼羅ご本尊をそのまま木像にしたのと、ご本仏であるお釈迦さまを中心に奉安したものとがありますが、ひとつのご本尊に相違ありません。また、紙に書かれたり木彫りにそのまま写した大曼荼羅御本尊も実体は同一です。ご本尊をおまつりする内陣は厳かに、そして清潔にいたしましょう。お祖師さまのお像には十一月十一日(小松原法難会)の頃から真綿の帽子をおかけしましょう。仏天蓋や木蓮華などは時々ほこりをとりましょう。

花と香と燭台

 枯れた花は目につきやすく、それは参詣の方の信をも軽くさせる恐れがあります。また、トゲのあるものやすぐ散らばるようなものは避けるべきです。花がもちにくい季節には青い木のものだけでも心がこもっていればよいでしょう。
 香には香木(沈香・白檀など)をたく焼香、線香のほか塗香などがありますが、いずれも上品なかおりをご本尊にささげてその清浄の功徳を受けるのです。本堂に入るとほのかにたきこめられた優雅な香りによって清浄な心に生き返るのが理想でしょう。香炉もきれいに布などで拭ききよめます。
 灯明は仏陀の慈悲の光をあらわすものです。燭台はきれいにしましょう。
 仏具はすべて、一直線にそろえるものはきっちりと一直線に、対称的になるものは形よく揃えねばなりません。燭台・香炉・花瓶の配置には三具足と五具足との二つがあります(図参照)。どちらにしても、必ず中心をご本尊の中心に揃え、対称になるよう確かめましょう。
 このことは本堂全体にもいえることで、隅々にまで気の配られた本堂には荘厳の雰囲気がみちているものです。

日常のお給仕

 毎朝お茶やお水またお仏飯等とお供えします。器は質素なものでも結構ですから、荘厳味がもつものが望ましいでしょう。果物や菓子などをお供えするときは、ご本尊さまへの感謝をこめてきれいに捧げましょう。
 こうした日常のお給仕の心構えが壇信徒の教化にもなるのです。


第2節 お仏壇のまつり方

仏壇の意味

 広辞苑の〈仏壇〉を見ると、「仏像や位牌を安置して礼拝するための壇」と解説してあります。一般に、仏壇とはご先祖の位牌を安置するところ、というように考えられているようです。たしかに仏壇にはご先祖の霊もおまつりするわけですが、まずご本尊を勧請して、正しい信仰のあり方を示し、それからご先祖も、生きている私たちもご本尊に救っていただくようにしなければなりません。
 檀信徒を指導する際、その点に最も注意していただきたいと思います。

ご本尊のまつり方

 これからご本尊をおまつりしようとする方には、お曼荼羅の奉安をおすすめします。お祖師さまが自らお書きになった大曼荼羅ご本尊は百二十余幅も現存していますが、日蓮宗ではお祖師さまのお書きになった臨滅度時の大曼荼羅(弘安五年十月十三日、お祖師さまがご入滅なさるとき枕辺に掛けられたと伝える)を、複製し、檀信徒にすすめています。
 問い合わせは、日蓮宗新聞社(03‐3755‐5271)へお願いいたします。

お仏壇の荘厳

 仏壇の形や大きさによってご本尊の奉安やお位牌等の安置が決まると思いますが、①仏壇の中心にはご本尊をおまつりすること、②お祖師さまのお像はご本尊の真下に奉安すること、③お位牌・過去帳は、ご本尊・お祖師さまよりも、低く両側に対称に置くようにすること、の三点の注意が必要です。
 ご本尊やお祖師さまは必ず住職に開眼していただいてから奉安するように指導いたしましょう。
 先祖のお位牌を不釣り合いに大きくすることは厳しくつつしまなければなりません。
 仏壇の荘厳は、以上のことを念頭に置いて、図示すると次のようになります。

お仏壇のお給仕

 仏壇のお給仕もご本尊を中心として、清潔と整頓、荘厳を基本とすることは、お給仕の心がまえのところで述べたとおりです。
 花瓶・香炉・燭台はなるべく簡素なものを選び、仏壇につり合いのとれたものに指導しなければなりません。とくに、位牌はつり合いのとれた大きさにしないと、ご本尊やお祖師さまのおすがたを見下すような恰好になり、信仰的に望ましくない結果になります。花はむれて枯れやすいから気をつけること。仏飯・果物・菓子などは早目に下げることが肝心です。

朝夕の礼拝

 朝と夕には家族みんながご本尊に礼拝するようにしたいものです。信仰の第一歩は、まず自分の心をみつめることです。ご本尊の鏡に照らして、常に反省し、常に前進して行く心ほど強いものはありません。ご本尊に祈る心は、身体の健全と豊かな人間性をつくりあげていくでしょう。


第3節 日々の勤行

 寺庭婦人の日常はあわただしい毎日ですが、たとえわずかな時間でも本堂におまいりし、お勤めをしたいものです。

おつとめのこころ

 勤行は日々に仏のみ教えを受持することによってご本仏(久遠実成の釈尊)の永い間のご修行とご本仏となられた功徳のすべてを、私たちが譲与される帰依のあかしであります。お祖師さまは、法華経を帰依の教法とされましたが、その中心が如来寿量品であり、教法の肝要は南無妙法蓮華経の五字七字に顕されていることをお示しになりました。ですから、わたくしたちも、この教法のこころに依っていかなければなりません。おつとめの前には手を洗い、口をそそぎ、心と姿を正すようにしたいものです。

日常のおつとめ

 そこで、日常の勤行作法の一例を示してみましょう。

  • 〔礼拝〕
  • 開経偈(「無上尽深微妙の法は……」)
  • 方便品
  • 自我偈(「如来寿量品第十六」の偈)
  • 運 想(「唱え奉る妙法は……」)
  • 正 行(お題目 三十遍ぐらい)
  • 御妙判(お祖師さまのご文章を適宜に拝読します)
  • 回 向(回向文を唱えます)
  • 〔礼拝〕

お経の読み方は、あまりゆっくりでもなく、せっかちでもなく、高すぎる声でも、低すぎる声でもなく、明瞭に、清々しい音声であるようにこころがけましょう。わたくしたちが勤行している周辺には、生きとし生けるものが聴聞していることを思い、心を散らすことなく、お経の一字一句ごとに本仏に接するつもりで読誦しなければなりません。ことに早く読経をすることを誇ることは意味がありません。
お寺はご本尊を中心に、住職・寺族が檀信徒と共に正しい教法を受持し、また他に伝えていく道場です。その心持ちを失ってはなりません。そして、子弟・子女をこの心で養育していくのが寺庭婦人のつとめであり、それは寺庭婦人自身の日常の勤行によって全うできるものであることを銘記せねばなりません。

日常の作法

 日常生活の心がけもそれに尽きるのですが、ご飯をいただくときにも、簡単な食法をとなえたり、少なくともお題目を三唱してから、感謝の心でいただきたいものです。

食法

(食前)
 天の三光(※)に身を温め、地の五穀に精神を養う、みなこれ本仏の慈悲なり。
たとえ一滴の水、一粒の米も功徳と辛苦によらざることなし。われらこれによって心身の健康をまっとうし、仏祖の教法を守って四恩に報謝し、奉仕の浄行を達せしめたまえ。
南無妙法蓮華経
頂きます

(食後)
お題目 三唱
ごちそうさまでした。

※三光 ― 日、月、星の光

補足

「日蓮宗寺庭婦人の心得・めざすもの」

誓います!お題目の浄らかな心を世の中へ

今、日蓮宗では、来る立教開宗七五〇年を当面の目標に(※平成17年時)、宗祖の悲願である『お題目総弘通運動』を展開し、各ご住職も檀信徒と共にお題目の旗を掲げ、推進しています。
現代社会は、繁栄の中で多様化・混迷し、そのはざまで人々は、多くの悩みを抱え、地球環境までも悪化し、子供たちの将来にとって不安な世の中になってまいりました。これからの寺庭婦人は、日蓮聖人のお言葉を実践され、檀信徒教化にも、なお一層力を注いで頂くことが求められております。
どうぞご住職と共に、“浄らかな心”を充分に発揮し、この世の中を住みよい世界(寂光浄土)にしていきましょう。

1.仏祖のみ教えを学び信行を深めましょう。

お寺は三宝(本仏釈尊・法華経・日蓮聖人)のお住みになられている尊い道場です。寺庭婦人は仏縁に導かれ、お寺で生活させて頂いています。お釈迦さま・日蓮聖人がいかに生き、私たちに何を伝えられたのか身をもって学びましょう。信じ行うことによって、充実した心豊かな日々を築いていくことになるでしょう。

2.菩薩の心で生活しましょう。

「奉仕させて頂けるのが最高の幸せです。」とはある主婦の体験談です。この言葉からお釈迦様の菩薩行を想い起こします。法華経提婆品には「お釈迦様は宝や命さえも惜しむことなく布施行された」と説かれています。これは立派な菩薩行の一つです。内にはいつも浄らかな心を保ち、外に向かっては相手の気持ちを重んじる。そんな人になりましょう。

3.お寺の行事の重要さを再認識しましょう。

お寺の行事には大きな意義があります。多くの方の信仰心で伝えられてきたお会式やお施餓鬼(法会)など、未来の人達に伝え残して行かなければならない大切な行事なのです。こうした行事は、仏祖の追体験となり、歴史上の意味を再認識し、人々の和を育てます。率先して参加を呼びかけましょう。

4.お寺の歴史・事物に精通しましょう。

お寺には檀信徒だけでなく、一般の参詣者、研究者、歴史短探訪者、俳人などが訪れます。歴史を始め、堂内尊像、仏具の名称・特徴・掛け軸や置物、頒徳碑の由来、草木の名前、樹齢に至るまで聞かれることがあります。平素から的確な説明ができるよう心がけましょう。

5.自ら進んでよき相談相手になりましょう。

私たちは人と出会うとき、合掌の気持ちで接しているでしょうか?
内輪話に立ち入っては失礼と、当たり障りのない話に終始していませんか?
こちらから進んで心を開くと、相手も心を開きます。家族、育児、女性・高齢者等のよき相談相手になりましょう。

6.すべての子供をみ仏の子に育てましょう。

子供は親の姿を見ながら育ちます。口で百回言い聞かせるより、日常の親の生活態度が、血となり肉となって子供を大きくしていきます。世界中のどんな子供達も、み仏の子供です。寺庭婦人は、すべての子供達に、慈母の眼ざしと安らぎの心を持って、やさしく言葉をかけてあげましょう。

7.住職との話し合いをしっかりしましょう。

寺庭婦人は、寺院活動の中で、大きな役割を果たしています。日頃から住職とよく意思の疎通(宗教的対話や情報交換)を図り、力を合わせて、お題目を弘め、浄らかな蓮の花を咲かせましょう。

※寺庭婦人会を組織しましょう。

各寺庭婦人は、連携のない孤軍奮闘の状況に置かれている、と言っても過言ではないでしょう。寺庭婦人の生き方は、他の多くの寺庭婦人の経験に学ぶのが有益です。「資質の向上をはかり、教養を高め、研鑽に励むため」と寺庭婦人会規程にあります。まず各管区ごとに寺庭婦人会を組織しましょう。更に、各寺庭婦人会相互の「連絡を緊密にするため」(同規定第五条)全国寺庭婦人会連合会の組織化を推進しましょう。


特殊法要式

寺院の日常生活では、法要・回向、或いは修法などが中心ですが、特殊な法要式も行う場合があります。これらの中には、あまり行わないものもありますが、教化活動の基本として重要なものであります。新しい教化のあり方をご住職が試みられるよう、寺庭婦人は積極的にこれを協力すべきでしょう。

得度式

一定の修行を積んだ在家者が剃髪し、出家となる式で、導師・両阿闍梨の執行のものとに授戒を受け、授経・授服・授名を受けます。「初心忘れるべからず」という言葉がありますが、僧侶となるときは必ず得度式を行い、宗門は得度者に得度の確認をするため、度牒を清澄寺で下附します。お祖師さまがご修行、開教なさった霊地・清澄山のご宝前で度牒を受けることは得度者にとって感激でありましょう。

住職認証式

日蓮宗教師が初めて住職となるときは、祖山(身延山久遠寺)において宗門が行う、住職認証式に登詣せねばなりません。たとえ、年少であろうとも、住職として活動する折目になりますから、寺族は総代・世話人と共に、新住職に添って登詣すべきでありましょう。

晋山式

寺院の法灯を継承する式。法類・法契・檀越・信徒参列のもと、新住職が法灯相続を誓い、檀越等は外護の誠を誓います。今では一般に区別なく用いておりますが、本末制度のあった時代には、一般末寺は「入寺式」または、「入院式」と言い、「入山式」「晋山式」の語は本山以上の場合に限られたものでした。

出家の葬儀・年回忌

出家が逝去したことは遷化といいます。遷化とは「化導をこの世界から他の世界へ遷すこと」ですから、在家とは葬儀の意味も異なり、引導を受けることなく歎徳(生前の徳をたたえること)が諷誦されます。
 住職の本葬は必ず後継住職が決定してから、大ていは晋山式終了後、同日に行います。それは法灯を明らかにすることを第一義とするためで、それまでは仮りに密葬をとり行うのが普通です。
 年回の法要も「増円妙道位隣大覚」を祈るものです。

帰正式

在家が入信したときも、帰正の式を挙げ、本門三秘の妙戒を受け、信徒となったことを確認せねばなりません。別に大袈裟な形式や振舞いなどは不要ですが、現在ではいつ信徒となったのか、ご本人がどれほどそれを自覚しているのかが甚だ曖昧です。これからの教化活動にはこの入信の式が是非とも必要なわけです。お祖師さま滅後、先師がそれを行っていたことを窺い知ることができます。今後はそれなりの時代性を考え合わせて行われる事が必要でしょう。

成年式

最近、各地で成人式が行われており、寺院で行っているところもあります。宗徒として成年に達した満二十歳に、あらためて成年の自覚をもち、法華経信仰によって生きていくことを目標とすることは大切なことだと思います。宗徒の自覚を人生の折々に確認していく式を確立していくことは、寺院にとって今後の課題でありましょう。なお、何か記念になるものを授与することが望ましいと思います。

結婚式

日本人の平均習慣からすると、結婚式は神前で、葬儀は仏式でというのが多いようです。しかし、こうした傾向になったのは古いことではなく、明治時代の頃までは各自の家の仏壇の前などで三三九度の盃を行ったようです。宗徒である以上、結婚式も法華経信仰の儀にのっとって行うべきです。最近は仏前結婚式の例も多くなったようですから、人生の新しい門出にふさわしい式であるように心を配りたいものです。式にはお数珠を授与します。

開眼式

もともとの意味は新たに仏像の眼を開くことで、新たにできた仏像・仏画像等を供養して仏の霊を迎える儀式です。ご本尊や宗祖日蓮聖人像を新におまつりしたり、諸尊像をおまつりするときは、開眼の式を行うよう檀信徒にも教化しましょう。また、寺院の仏具等を新たに造ったときも同様です。

地鎮式

寺院・教会・結社が伽藍を建立するときには、建立の地を鎮めるために行いますが、在家の場合も日蓮宗の式で行いたいものです。

起工式

起工式は地鎮式に準じて行うべきです。

除幕式

頌徳碑・記念碑などの建設が終わって公開する前に行う祝いの儀式。普通、その像・碑などを白布でおおっておき、ゆかりの人が白布を撤去します。

入仏式(落慶式・開堂式)

ご本尊を寺院へお迎えして安置するために営む式で、本堂などの落成式や開堂式も同様の形式で行います。寺院の丹精は檀信徒の資助によることが多いので、檀信徒とともに行い、信仰増進をはかるのが一般のあり方です。

畜生済度式

牛・馬・犬・猫などの家畜を埋葬したり、また弔霊をする場合は、人間に準じて簡単に行います。また多数に対して行うときは施餓鬼会などの法要に準じて行います。これは「有情」という言葉があるように、一切の生けるものに対する仏陀の慈悲をいただく心持ちに発するものなのです。