年中行事

1月
新年祝祷会 元日

 日本では古くより歳神様を新年に迎え、その年の多幸と豊作、国家の安泰を祈願してきました。仏教でも修正会という国家安寧を願う法要が行われて、それが次第に一般化しました。日蓮宗でも新年祝祷会を行い、一年の平安を祈念します。

七面山から見たご来光
2月
節分追儺式 二月立春

 節分追儺式は、宮中で行われていた悪鬼払いの儀式を由来とするため、本来は正月の行事でしたが、現在は立春に行われる除厄招福を祈念する行事となっています。場所により星祭りを併修されることもあります。立春に行いますので、暦により日がずれる場合もありますので、ご注意下さい。

鬼も「私」

 「鬼は外・福は内」と声を挙げる豆まきですが、お寺によっては「鬼は外」と言わない場所もあります。鬼は人の心に育つ悪い感情を指し、それを外に追い出すのではなく、お釈迦様の教えにより浄めることが大切だと考えるからです。

釈尊涅槃会 2月15日

 涅槃とは、お釈迦様が亡くなったという意味で、入滅とも表現します。釈尊がインドのクシナガラで八十歳の生涯を終えられたと伝わるこの日に、弟子・信者はもとより、天人や動物までもが釈尊の入滅を悲しむ場面を描いた涅槃図を掲げ、感謝を込めて報恩の法要が営まれます。

北枕

 亡くなった方の頭を北に向ける風習があります。これはお釈迦様が亡くなったとき、頭を北に向けていたことにならっています。
「アーナンダよ、沙羅双樹の木の間に頭を北にして臥床を作ってくれ。私は疲れた。横になりたい」と言って釈尊は右脇を下にして脚を重ね臥されました。

宗祖降誕会 2月16日

 日蓮聖人がお生まれになった日をお祝いして営む法会が、宗祖降誕会です。貞応元年(1222)、現在の千葉県鴨川市小湊で日蓮聖人がお生まれになった時には、浜辺に青い蓮の花が咲き、庭には清水が湧き、海では鯛が群れをなすなどの奇瑞が現れたと伝えられています。

奇跡の善日麿の銅像

 誕生寺にある善日麿の銅像には奇跡の物語があります。
この銅像は、第二次世界大戦時に、多くの金属製品と共に戦時供出され、所在不明となってしまいました。終戦後のある日、一人の篤信者が、東京の両国駅で電車の窓から、構内に置かれていた多くの戦時供出品をながめていたときでした。左手を欠いたこのお像を見つけたのです。その後、関係方面への働きかけが実り、誕生寺へと還り、元のように安置されたのは、昭和21年8月27日のことです。欠けていた左手も、修復されました。

奇跡の善日麿の銅像
3月
春秋彼岸会 3月と9月

 春分と秋分を中日として、その前後三日、七日間を彼岸会と言います。六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵)を実践し、彼岸(悟りの世界)へ至る仏道実践週間ですが、日本の伝統的な先祖供養と結びついて江戸時代には祖先の霊を供養する行事となりました。

お彼岸と言えば

 彼岸会には「ぼたもち」「おはぎ」をお供えする習慣がありますが、これはどちらも同じものです。季節豊かな日本の表現らしく、春に咲く牡丹、秋の萩になぞり、同じものでも季節に合わせてその名前が変るのです。

4月
釈尊降誕会・潅仏会 4月8日

 お釈迦様の誕生を祝う法会で、「花まつり」とも言います。
お釈迦様がルンビニの花園で誕生されたとき、竜が天から舞い降り、産湯の代わりに甘露の雨を降らせたという故事に因んで、花で飾った花御堂に、天地を指差す誕生仏を安置し、甘茶を注ぐことから潅仏会(かんぶつえ)とも呼ばれます。

立教開宗会 4月28日

 建長5年(1253)、比叡山から清澄に戻られた日蓮聖人が、旭が森で昇る朝日に向かって、高らかにお題目を唱え、法華経を弘める誓いを立てられた日です。日蓮宗の誕生日とも言え、報恩の法会が営まれます。

度牒(どちょう)

 度牒とは、僧として第一歩を踏み出したことを宗門が正式に認めることです。日蓮聖人が、出家することを決意したこの清澄寺で、僧侶になるための誓いを立て、「度牒(どちょう)交付式」が行われます。

旭が森の日蓮聖人
5月
伊豆法難会 5月12日

 弘安元年(1261)5月12日、鎌倉で法華経を広めていた日蓮聖人は、現在の静岡県伊東市に流罪となりました。しかし、流罪の地に到着する前に伊東沖合の小さな岩「俎岩(まないたいわ)」に置き去りにされてしまいますが、漁師舟守弥三郎に助けられました。四大法難の一つで、その艱難辛苦の往時を偲び法会が行われます。

俎岩の日蓮聖人
7・8月
盂蘭盆会 7月・8月

 お釈迦様の十大弟子の一人、目連尊者が餓鬼道に落ちてしまった母親を救うため、多くの僧を招いて供養したとの故事に由来します。
一般的には7月または8月の15日を中心に、13日~16日に行われますが、地域によって日付が異なることが多い行事です。この時にご先祖様は各家に戻るため、僧侶が家に訪問し、仏壇(精霊棚)にお参りする棚経を行います。

新盆と旧盆

7月に行われるお盆を新盆、8月は旧盆と呼ぶことがありますが、これは明治6年に日本の暦が、太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(新暦)に改暦された事に由来します。

精霊棚
施餓鬼会

 餓鬼界に落ちて、飢えと渇きに苛まれているもの(餓鬼)に対し、法華経を読誦しお題目を唱え、飯食を施し(施餓鬼)、救済する法会です。特に決められた時期はなく、年中通して随時行われるべき法会ですが、彼岸会や盂蘭盆会に併せて営まれることが多いようです。

餓鬼

 餓鬼とは、元は死者の霊を指しました。『正法念処経』には様々な種類の餓鬼が登場しますが、おしなべていえることは、「常に飢えて満ち足りることを知らない存在」と言うことです。そんな存在になりたくないと思いつつ、自らのどこかに潜んでいる「餓鬼」が、時折、顔を出すことを自分でも知っています。施餓鬼会は餓鬼のためにするのではなく、自分を戒めるためにするのかもしれません。

松葉谷法難会 8月27日

 文応元年(1260)8月27日、鎌倉での布教の拠点とされていた松葉谷の草庵に念仏信者達が来襲し、焼かれてしまいます。日蓮聖人はなんとか難を逃れますが、この後、伊豆へ流罪となってしまうのです。
四大法難の一つで、その艱難辛苦の往時を偲び法会が行われます。

9月
龍口法難会 9月12日

 文永八年(1271)9月12日、幕府を批判したという罪状で日蓮聖人は、佐渡へ流罪となり捕縛されてしまいます。ですが向かった先は龍ノ口の刑場で斬首されそうになるのです。今、正に斬首されそうになった時、光玉が現れ、その太刀が折れ、首を刎ねることが出来なかったと伝わっています。その後、日蓮聖人は佐渡へ流罪となりました。
四大法難の一つで、その艱難辛苦の往時を偲び法会が行われます。

龍口法難
10月
お会式 10月13日

 弘安五年(1282)10月13日の朝、日蓮聖人は池上の地で61歳の生涯を閉じられました。そのため、池上本門寺では殊に盛大なお会式法要が営まれます。また江戸の頃より、12日のお逮夜には火消し衆が纏を振り万灯を掲げて参集し、日蓮聖人の御威徳を偲び、御厚恩に報いる万灯練行列が各地から参集します。

一貫三百

「一貫三百はどうでもよい。テンテンテレツク・テレツクツク」
江戸時代、池上本門寺のお会式に来る人が、これを口ずさみながら団扇太鼓を叩いて参詣したと伝わっています。一貫三百とは江戸時代の職人の日当。その日当を棒に振っても、お参りをするのだという意気込みが感じられます。

池上本門寺万灯練供養
11月
小松原法難会 11月11日

 文永元年(1264)11月11日、日蓮聖人一行が小松原(現在の千葉県鴨川市)に差し掛かった時、地頭東条景信の武装した一団に襲われ、弟子鏡忍坊と信者の工藤吉隆公が殉死、日蓮聖人も額に太刀を受けて重傷を負ってしまいます。
四大法難の一つで、その艱難辛苦の往時を偲び法会が行われます。
また、この時期前後から、日蓮聖人の太刀傷が寒さで痛まぬように綿帽子をお掛けします。

小松原法難
12月
成道会 12月8日

 お釈迦様が、インドのブッダガヤにある菩提樹の下で悟りを開かれた日です。
仏教が生まれた日でもありますので、各宗派でも法会が営まれますが、仏教の教えを説く講座や法話が行われることが多いようです。

ブッダガヤの大塔
星祭り 冬至または節分

  七星九曜二十八宿という星を祭って祈祷し、個々の除厄得幸を祈念します。「厄年」という「星回りの悪い」人の、善い星を呼び寄せ、悪い星を追い払う行事として行われることが多いようです。

厄年

 厄年とは、人生の中で三回ある、大切な役割を担い、環境が変わる用心するべき時期を指すことから、「役年」に由来すると言われています。
数え年で、男性が25・42・61歳、女性が19・33・37・61歳になる年齢を指します。
また、その前年を前厄、後年を後厄として、中でも男性42歳、女性33歳は「大厄」と呼んで注意を促しています。

厄年と役年
除夜の鐘 12月31日

 人間が持つ煩惱の数、百八の鐘を撞き、この一年を反省し、心浄らかになって新年を迎える行事として、定着しています。その後、除夜の鐘に続き、新年祝祷会を行う場合もあります。

百八

除夜の鐘は煩惱の数と言われますが、四苦八苦を足した数、(4×9=36)と(8×9=72)であるという説があります。
また、107回を旧年中に打ち、新年になる午前0時を過ぎて最後の一打を打つという説があるようですが、これは極近年のことです。江戸時代まで一日は明六つ(日の出)とともに始まると考えられていました。ですので、日の出直前まで除夜だと考えられていました。

除夜の鐘