
大逆なれども懺悔すればその罪きえぬ(光日房御書)
文永十二年(1275)身延の地から、今の千葉県、天津在住の光日房(一般的に「房」は男性をさしますが、時には女性にももちいられます。ここでは光日尼御前のこと。)に与えられたお手紙の一節が今回ご紹介の聖語であります。本稿では通常通り光日尼御前と申させていただきますが、尼御前は早くに夫を亡くし、子息、弥四郎殿も亡くされました。弥四郎殿は武士でしたので、戦で何人もの人を殺してしまった。その事を生前深く反省し、お題目をお唱えしていたけれども、今亡くなり、佛さまの所に往けるであろうかとの心配のお手紙に対するご返事が今回ご紹介の聖語であります。
日蓮聖人は文中で「小罪なれども懺悔せざれば悪逆(地獄の苦)をまぬがれず、大逆(大罪)なれども懺悔すれば、その罪きえぬ」とご教示下さっております。ちなみに懺悔の一般的意味を申しますと、『懺とは許しを請うこと。悔はくやむこと反省すること。犯した罪を佛の前に告白し、悔い改めること(仏教語辞典)』この事に加えて、日蓮聖人は自らが反省のお題目をお唱えしたならば、その功徳により相手の安心、成仏があり、本人も又救われるとご教示なさっておられ、心からの反省、お題目をお唱えし、相手に合掌礼拝することと懺悔の意味を示しておられます。
「私達はささやかな事で他人を傷つけるような事を行う事がままあります。その時、〝何、私にだって言分がある〟などと思い、反省をしなければ、悪逆つまり地獄の苦しみの世界におちるでしょう。しかし乍ら弥四郎殿のように自分の意志ではなく戦いで相手の命を奪うということでも大罪であります。けれどもご子息は深く反省され、その人のためにお題目をお唱えになっておられた。この事は佛さまに通じ相手の心にも響き共に成仏の道を歩まれるでしょう。あなたもそのおつもりで一層お題目のご修行に励れるがよい。」
このご教示に続いて光日尼御前に対し「悪人(悪をなした人)なりとも、うめる母、釈迦仏の御宝前にして、昼夜なげきとぶらわば、いかでか彼の人(ご子息)うかばれざるべき、いかにいわうや、彼の人うかわざるべき、いかにいわうや、彼の人は法華経を信じたりしかば親を導く身となり候らん」
懺悔、反省、唱題修行の尊さ、その重さ、ありがたさを実行した時、逆に親をも導く身になるとお説きになられております。
昨今の日本は、自分の名の出ぬ事を悪用して悪口、誹謗が蔓延しておりますが、この事は「小罪なれども懺悔せざれば」にあてはまります。尼御前へのご教示、私たちへのご教示と受け止め、日夜唱題修行に励んで参りたく存じます。