佛になるみちは 善智識にはすぎず(西山殿御返事)
今月ご紹介の聖語の題名は、一般的には「三三蔵祈雨事(さんさんぞうきうのこと)」と申し上げております。本書は建治元年(1275)六月、静岡県在住の西山氏より大角豆(ささげ)と青大豆がご供養された事へお礼のご返事であり、その宛名が日蓮聖人の御筆で「西山殿御返事」となっておりますので、そのようにご紹介させて頂きました。
『それ木をうえ候には、大風吹き候えども、つよき助(す)けをかいぬれば倒(たう)れず云々。甲斐(かい)無(な)き者なれどもは助(たす)くる者強ければたうれず。そこし健(けな)げの者も独(ひと)りなれば悪しきみちにはたうれぬ。』
お手紙はこのご教示からはじまります。「助くる者」とは、このあとで説かれる「善智識」のことで、そのご教示が今月ご紹介の聖語であります。
「佛道修行と言うものは、やみくもにしてもだめである。きちんとした指導者(善智識)の指導のもと行うべきである。そして善智識とはどのような人のことなのかきちんと見定めてから指導を受けるがよい。」
日蓮聖人はその方の住所をお手紙の名前となさる事しばしばでありますが、本書も同様で、西山に住んでおられる大内太三郎平安清殿を西山殿と宛名書きなさいました。この大内氏は大聖人の古くからの信徒で、身延山を寄進された南部氏を導いた方と伝えられております。その大内氏だからこそ「善智識」という深いみ教えをお説きになられたのだと拝します。
佛教で説く善智識とは、「佛の教え、佛の道を説き、人々を導く人」のことであります。人を導くということは、その人の人生を左右することでありますから、生半可な気持では出来ません。み佛の教えは何であるのか、そのみ教えが二千年の歳月を経過して、なお人生の道しるべとなれるのか、事の重大さを十分にわきまえられた人でなければなりません。
日蓮聖人は、その事を十分ご承知の上で末法の時代の善智識とはお釈迦さまが自分亡きあと二千年後の人々のために〝末法万年の善智識、上行菩薩を遣わされ、その善智識の役を私日蓮は背負(せお)っている〟のだとお説きになられ、自分は今その善智識の立場に立って末法万年の人々の成佛の道として南無妙法蓮華経のお題目を示したのだとお説きになられたのであります。
「佛になるみち」と「善智識」のこと、私たちは強く心に刻んでおかなければなりません。重ねて申しますと「佛になるみち」とは佛さま、日蓮聖人の到達された何事にもゆるぎない大安心(だいあんじん)の境地を目指し修行することであり、自己満足のための行ではないという事。自分が今修行している道は、日蓮聖人というかけがいのない指導者、お釈迦さまがご遺言なされた上行菩薩と云う善智識に従い、修行しているのである。更に念押ししますと日蓮聖人という善智識に従い自分のお唱えしているお題目修行はこれでよいのか、日常生活はこれでよいのかと常に自問自答し、更なる精進を積んで参りたく願う昨今であります。