菅野貫首写真

一切衆生のためには 教主釈尊は明師なり(一谷入道御書)

 一つのエピソード。およそ六十年前、立正大学で、日蓮聖人ご妙判の講義中、茂田井教了教授が「ところで君達、日蓮聖人が借金した事知っているかい」と問いかけられました。「冗談じゃない、日蓮聖人が借金なんて――」と思いつつよくよく聞くと「鎌倉からわざわざ佐渡の日蓮聖人を見舞いに来られた日妙尼が帰りの路銀が足りないと言うので、日蓮聖人が一谷入道殿に法華経を書き写してあげる約束で路銀を借りられた事実、日妙尼の信仰心の強いことが伝えられているが、日蓮聖人が路銀を出された事、それ程の大事を供金と言ったのは日蓮聖人の人々に対する温かい思いを知ってほしかったからである」ということでした。表現云々については横に置き、私はこのご教示により〝人間日蓮聖人〟に一歩も二歩も近づかせていただきました。
 日蓮聖人が佐渡にご配流になられ最初の住まいとされたのは塚原(つかはら)三昧堂(さんまいどう)と云う荒野の中の粗末なお堂でありました。ここに一年半在住、そこから移られたのが一谷という地で、丸二年の間、ご赦免になられるまで在住。沢山の御文章を残されておられる事でご存知かと思います。この一谷の名主が一谷入道殿でした。
今回ご紹介の御文は聖人身延入山丸一年後の文永12年5月8日にお出しになられ、一谷入道女房という宛名になっております。これは入道が念佛の信者であったこと、しかし内心では日蓮聖人に帰依されていたこと、この事を外部に知られては迫害の元になるおそれのある事などへの配慮から、宛名を女房殿とされたもので、内容は入道殿その人にお与えになられたお手紙であります。内容はまず、日妙尼路銀の御礼を申され、お約束通り法華経一部をお届けすること、そして在島中に自分と弟子達が、収穫前で食料が乏しい時に食料の援助を受けた事への感謝が述べられ、聖人在島中の辛苦が偲ばれます。このあと日蓮聖人が大難に遭われた理由、蒙古襲来予言の的中をあげ、これは教主釈尊のご遺言そのままであることを示され、お釈迦さまこそが末法に生きる者の親であり師匠であり、心の主であるとお説きになられ、今月ご紹介の聖語
「娑婆世界で、生きている者への、道しるべ、生きるお力をお説きになられたお釈迦さまこそが、私達にとって掛け替えのないお師匠さまである」
私の領解で解説しますと、み佛の教えの中には沢山の佛さま、如来さまが出て来られるけれども、それは随他意(ずいたい)、その時々、相手の条件に合わせて説かれたお経に出て来る方々で、その時だけの教えなのである。それに対しお釈迦さまが今説いている妙法蓮華経は、末法万年の人々をも救済する為の教えである。お釈迦さまご自身の意志で説かれた事により随自意(ずいじい)のお経と申し上げるのです。だから私達に生きる道を示して下さり、生きる力を与えて下さるのはお釈迦さまなのであるとのご教示であります。そのお釈迦さまが末法の時代の導師として、上行菩薩を指名なされた方、それが日蓮聖人、今月ご紹介の聖語はこのようにお説きになっておられるのであります。


合掌

日彰