菅野貫首写真

佛法は眼前なれども 機なければ顕れず(新尼御前御返事)

 文永十二年(一二七五)二月、日蓮大聖人五十四才、身延山から故郷小湊に近い東条の郷、領家の新尼と大尼あてのお手紙であります。大聖人はこの前年文永十一年五月に身延山にご入山なされておられますから身延入山後八ヶ月。お住まいも粗末、海育ち、太平洋の大海原を眺めてご生活なさった大聖人が四方を山で囲まれ、「高き屏風を四つつい立てたるが如し」と本文で仰せになられる程のお気持ち。故郷の恩人から送られてきた「あまのり」に故郷の味を偲ばれ、人間日蓮大聖人のお心の優しさが文中にあふれております。この時大尼・新尼お二人からご本尊を譲与してほしいとの申し出がありますが、大尼は大聖人がご法難にあわれる都度法華経を捨てられ、大聖人が戻られると信者になるという形の人でしたので大尼は信心が足りないので御本尊は授与出来ない。新尼は信心堅固なので御本尊を授与して差し上げようと、恩ある人なのだけれども信心が堅固でない人には授けられないと、大聖人の強いお気持の表れたお手紙であります。この時今月で紹介の聖語が説かれます。
 「お釈迦さまのみ教え、救済のみ手は、あなたの目の前に差し伸べられている。そのお慈悲の手を実感し、我が身に当てて受け止められるかどうかはその人の信仰心にかかっているのである。」
 「眼前」と仰せです。私たち凡夫の眼には見えないけれどもたしかに「おわします」のです。それを体感できるかどうかは全て私たちの信じきる心にかかっていると大聖人はおっしゃられます。「機」とは文字通り「時」のこと。法華経が弘まり、人々の救済のお力を示されるのはお釈迦さまご入滅後二千年を過ぎた「末法」という時代に「上行菩薩」が現れて、以後の人々救済の道を拓かれる。とお釈迦さまは法華経上でご遺言、それを実行されたのが日蓮大聖人でありますこと、度々申し上げている通りであります。今度はこの「機」を私たちが我が身に当てどう受け止めるかということ「機」はお題目をお唱えしている私たちに「信仰の機」「信心確立の機・時」があるのだということ、この「機・時」は法華経を信じ、修行している全ての人、それぞれにあるのだ、と私は受け止めております。この「機・時」を自分の人生の「いつ」と定めるかは各自の信仰心によります。そしてこの「機・時」を定め、唱題修行をしたとき今まで眼前におられても見えなかったみ佛のお姿が眼前に現れ、救いの手を差し伸べて下さる。今月の聖語で日蓮大聖人は私達に呼びかけておられるのです。
 重ねて申し上げたい事があります。私達のための「機・時」は常にあるということ、「佛さまは眼の前におられる」ことを事実として受け止め、安心を得られるかどうかは全て各人の信仰心による。大尼のようにあっちこっち迷ってはならない。どんな事があってもお題目の信仰を捨てない新尼のような信仰心を持ちなさい、と呼びかけておられます。


合掌

日彰