法華経の行者は日月等の如し(四条金吾殿女房御返事)
鎌倉武士四条金吾頼基(しじょうきんごよりもと)、日蓮聖人第一の信者と申し上げてよいほど強い法華経信仰者でありますが、この方の奥様も強い信仰の持ち主で日蓮聖人から「日眼女(にちげんにょ)」と御名前を頂いているほどの信仰者であります。この日眼女が、三十三才の厄年を迎えたことを心配し、ご供養の品をおとどけ申し上げ、聖人に厄よけ祈願をお願いされた時のご返事が今日ご紹介の聖語であります。
まず聖人は「日眼女」が強い信仰の持ち主であることを認められ、法華経の功徳の甚深であること。数多くの仏典の中で女人の成仏を説いているのは法華経だけであること。あなたはその法華経を心と体でしっかりと収め、信じきり日夜修行されている法華経の行者の女人であること。そのあなたが三十三の厄に当ったとて何も恐れることはない。たとえてみれば厄年は星の光であり、法華経の行者の光は日、月、太陽と月の光なのである。厄年におそれることなくしっかりとお題目をお唱えなさい、仏祖三宝さまは必ず守って下さる、どうか安心なさるがよいとご教示なさいます。
このご教示の中で今月ご紹介の聖語を分かりやすく申しますと
「法華経を信じきり、至心にお題目をお唱えしている人は、たとえてみれば太陽の光、月の光なのである。それに対し厄年の光はあのかすかな星の光である。心を強く持って今までと同じようにお題目の強い信仰者、法華経の行者であってほしい」
さてこの時から七百余年、今日でも厄年はあります。それは星の光ほど。消すには、より大きい光、月、太陽の光が必要であるように、法華経、お題目の大きな光を私たちは失ってはならないのです。実際の星の光は夜にはもどりますが、厄年の光は一度法華経お題目の光明で消されると再び光ることはない、と今月の聖語は教えております。
もう一つ。厄年は『その前後も気をつけるべし。つまり厄には前厄、本厄、後厄の前後三年が厄年である』と先師は経験上説いておられますが、この事とて私たちの信仰心の強さ弱さにかかっている事申し上げるまでもありません。そして諸厄の「根」は自分自身の行いにあることも忘れてはならないことであります。この厄の源はと考えた時必ず思い当たるのが自分自身の行為そのものであるからであります。それ故に大聖人は法華経のお題目の信仰心とその行動をおすすめになられ、その実践者を法華経の行者とおおせになられ法華経の行者は厄年をおそれることはない。
法華経の行者と言うと日蓮聖人の事かと思われる人が多いと思いますが。たしかに日蓮聖人は法華経の行者でいらっしゃいます。ですが、聖人が四条金吾婦人を法華経の行者とおっしゃっておいでのように、法華経、お題目に全てまかせきり行動する人、その人を法華経の行者と呼び、私達にも法華経の行者になりなさい、法華経の行者の行動をなさい、厄年におそれることはないと今月の聖語は説いておられるのです。