菅野貫首写真

釈迦佛は我等が為には 主也・師也 親也(主師親御書)

ご紹介の聖語は建長七年(一二五五)宗祖三十四歳の時のお手紙の一節であります。お相手はご両親です。建長五年三十二歳、清澄で立教開宗、故郷を離れて二年、ご両親に自分がどのような気持ちで立教開宗したか、法華経とはどういうみ教えであるか、何故今、自分が弘めなければならないのか。このみ教えを弘めてゆけば数々の大難が身に降りかかるであろう。それはこのみ教えの真実を悟った者の逃れる事の出来ない佛縁なのである。お釈迦さまご自身でそのようにご予言なさっておられるからである。私のこと、さぞご心配なさっておられましょうが我が子がみ佛のお使いになったのだとお考え下さい。ご両親が納得出来るように丁寧にお説きになられたのがこのお手紙であります。
そして一番初めにお説きになられたのが今月ご紹介のみ教えであります。
『お釈迦さまは私たち一切衆生のためには、生活の根本を守って下さる主であり、世の中の苦から離れる道を説き示して下さるお師匠さまであり、子供の行く末を案じて我が身を犠牲にしても私たち子供を守って下さる親なのである。この事を主・師・親の三徳を兼ね備えた佛さまと申し上げるのです。』
お釈迦さまが仰せになられてから二千五百年、日蓮聖人がお述べになられてから七百年、主師親はいろいろと変化しました。主とは給料を出して下さる人、会社の社長さんではありません。社長さんもみ佛の教えの中におられますし、会社もそうです。コロナでわかりますように私たちの主は地球、いや宇宙全体なのだと受け止めるべきであります。お釈迦さまは『この世の生きとし生きる者全てに佛の魂。佛性が宿っている。だから地球全体の幸せを祈りなさい』とお説きになられ、二千五百年前今日のことを予言なさっておられます。ですからお釈迦さまは私たちにとり「主」なのであります。
では「師」とは、表面的には学校の先生を始め私たちに道、学問等を教えて下さる方の事で今も昔もかわりません。ですがお釈迦さまが、私たちにお説きになっておられる「師」はもう少し深いところにあります。個人的には日常の苦、四苦八苦にはじまり人生の苦から抜け出す為のみ教え、そして家庭、社会、国、世界が幸せになるみ教えとして妙法蓮華経をお遺しになられ、更にこの教えを弘める為に「上行菩薩という人を再誕させる」とも。これを真実として受け止められたのが日蓮聖人であります。
最後は「親」です。昨今子殺し、親殺しという人間と思えぬ人がおりますがこの人達は特別としましても親御さんも変わりました。お釈迦さまの「親」はどこまでも、どんな形になった子でも”吾が子”として見捨てない親であるということであります。
限りない佛智によって二十一世紀に生きる私達に向け『あなた達は本当の幸せとは何なのかを考えなさい。地球全体の幸せを考え行動した時、はじめてあなたは心の安らぎ、本当の幸せを見つけるでありましょう』
三つの徳を備えられたお釈迦さまからのメッセージであります。


合掌

日彰