一乗法(法華経)を信ずる人を如説修行の人と佛は定め給う(如説修行抄)
文永十年(一二七三)五月、佐渡一谷(いちのさわ/現本山妙照寺)『日蓮門下一同のため』にてお認(したた)めになられたご教示の一説であります。本抄は先にもご紹介しましたが大切な御書ですので別の面からご説明いたします。この中でお示しの一乗法とは只一つの乗り物、つまり沢山あるお釈迦さまのみ教えの乗り物の中で末法(ご入滅後二千年)の衆生のためにお説きになられた妙法蓮華経のことであります。修行の修とは修心つまり心の修行のこと。行とは日常の行いのことであります。ご紹介の聖語を私の領解でご紹介いたしますと、
『お釈迦さまは、末法の時代に生きている私たちのためにお説き下さった只一つのみ教え法華経、南無妙法蓮華経を信じきり、心と体で実行する人のことを如説修の人とお定めになられた』
この説の如く修行なされた方、如説修行者である日蓮聖人が末法世界に生きる私たちの為にお示教下さったのが南無妙法蓮華経のお題目であります。そしてこのお題目を身と口と意(こころ)で受持し、唱題することこそが如説修行者であるとご教示なされました。このみ教えに導かれて門下の教師、檀信徒は一心にお題目をお唱えしてきました。そして自身では安心の境地に至り、他の人の為にもその境地を説かれた先師や信者の方が沢山おられ今日の日蓮宗があります。その中にあって唱題修行を一つの形にして示された修行法に「唱題行」があります。
およそ七十年前、湯川日淳上人という方が、ご自身が唱題によって安心の境地に至られるために、太鼓や木鉦での修行を重ねられてたどりつかれたのが「唱題行」という修行法であります。ここに至るまでに湯川上人は中国の天台大師(日蓮聖人がお釈迦さまに次いで尊ばれた方)の摩訶止観(法華経による修行法)をよりどころとされたり、各宗の行法を学ばれたりなさった上でのことでありました。かく言う私も中国の天台山にお参りしましたがここでは朝のおつとめの前に約三十分「止観の行」があり、引き続いておつとめに入られます。まさに唱題行の原点だと感じたことを思い出します。
私が、湯川日淳上人にお目にかかったのは昭和三十二年立正大学で宗門の勉強を始めた時でした。その頃すでに上人の行法は完成しており、大学の教学研究発表会で二時間にわたって話され、現立正大学名誉教授渡邉宝陽先生(当時は助手でした)に依頼し短くまとめていただき、私たちの教誌「白毫」に載せさせて頂いたのがそもそもの始まりでありました。
その湯川上人が中華料理店に私たちを招待して下さいました。途中トイレに立ち、仲居さんの声が聞くともなしに聞こえてきます。「あなたネ、何かイライラしているようだけど、広間の年とったお坊さんにお酌してきなさい。イライラがとれほっとするから」まったくの初対面の方が「ほっとする」。これが唱題行実践者の至る境地なのだとその時私は実感したことでありました。湯川上人のようになった時、私も如説修行の人になったのだと自分を励ましております。