有情(衆生)の第一の財は命にはすぎず(主君抄)
日蓮聖人が身延のお山にお入りになられて間もない文永十一年九月、強い信仰の持ち主として知られる四条金吾殿にお与えになられたご教示の一節をご紹介いたします。尚、御妙判の題名は昭和定本では『主君耳入此法門免与同罪事』でありますが、浅井要麟先生の『御遺文講義』では『主君抄』となっておりますので、『主君抄』とさせていただきました。
「私達人間にとって第一の宝物、最も大切なもの、それは命である。人の命と同じく大切なのがこの地球で生きる全ての生きものの『いのち』であり、それは『佛性』である。私たちはこの大きな『いのち』も大切にしなければならない。」
四条金吾殿というお方は、日蓮聖人が龍ノ口のご法難に遭われた時「ここで切腹し、聖人のお伴を仕る」と言われた程の人物です。自らが仕える主君に法華信仰をすすめたものの、主君である江馬氏は聞き入れず。その有り様を聖人に報告し、場合によっては「法華経のために切腹を」と言い出しかねない金吾殿に対し、聖人の第一声は「命を大切にしなさい」でありました。軽々しく腹を切るなどと言ってはならないとおさとしになられ、今月の聖語となるのであります。
今、日本はまさにコロナ戦争(私はこのように名づけております)の最中にあり、今ほど人の命の尊さが叫ばれている時はありません。けれどもそれは表面上のこと、逆に今ほど人の命が軽く扱われている時はないと私は思います。何故なら日本国の指導者は「人の命を大切にしながら経済もしっかり守ってゆく」と広言し、人の命とお金を同等に扱っています。自ら範を示すわけでもなく、陰で今までと変わらぬ生活を送っている。それを肌で感じ取っている国民は、慎むことをやめてしまう人がいることも事実です。これではコロナを撃退することは出来ません。いずれコロナはワクチンや治療薬が開発されて治る時が来るかも知れません。しかし乍らこのままでは「命の大切さ」という根本は忘れられたままです。形を変えた『再発』は、恐ろしいことであります。
命の大切さで忘れてならないことの源は「命は人間だけのものではない」ということであります。今回のコロナ騒動の源は、野生動物の命を粗末に扱ったことを発端としております。もう少し野生動物、いや生きとし生ける大自然に思いやり、気配りがなされていれば……。そう思いますと残念でなりません。
佛教では、この宇宙に存在するもの、人間を含めた動物や一木一草、一石一砂、全てに『いのち』があると説きます。その全ての『いのち』の尊さが守られた時、まことの幸せが訪れると教えております。このコロナ戦争を単なるウイルス撲滅の戦いとするのではなく、生きとし生ける者全ての『いのち』を大切にする「好」と受け止めたく拝します。なお聖人はこの御教示の結びとして、「女房と酒うち飲みて語らせ給うべし」と仰せになっておられます。如何でしょう。今日に十分通じるおさとしと拝しますが……。