此の土の我ら衆生は 教主釈尊の愛子なり(法華取要抄)
令和三年の新春を寿ぎ、地球全体の平安、十方有縁の各上人、檀信徒皆様の安穏を心よりお祈り申し上げます。
池上 日彰
昨年はコロナに明け、コロナに終わった年でありました。この一年でわかったことはコロナの病状もさること乍ら、人間の「エゴ」のすごさ、そしてその結果でありました。私たち人間がもう少し自分を省み、自分の行動をおさえていれば、コロナは第三波までゆかなかったのではと残念でなりません。今私が最もおそれていることは「エゴ」の次にくる悪魔のささやき「神も佛もない」このことであります。私の杞憂で終わることを願わずにはおられません。
今月ご紹介の聖語『法華取要抄』。御題は日蓮聖人ご自身がおつけになられました。「お釈迦さまは五十年間ご説法なされたが、その中で末法の衆生(現代の私達)のことまで心に止めて説かれたみ教えは法華経だけである。その法華経によってお示しになられたお釈迦様の大慈悲心とは南無妙法蓮華経、七字のお題目である。」このことを細部にわたって説き示されたのが、この御書であります。
本文では末法の時代における法華経の役目、末法には「上行菩薩」が必ず出現され、妙法五字、題目受持によって人々が救済されること、等々が細部にわたって説き示されます。佐渡における過酷なご配流生活を乗り切られる原動力となった、法華経に対する「絶対の信」があったことが説かれております。
その上に立ってお示しになられたのか今月ご紹介の聖語であります。
「此の娑婆世界に生活している私たち衆生、その私たちを救って下さるのは主の徳、師の徳、親の徳の三徳を持っておられるお釈迦さまである。そのお釈迦さまが私たち衆生のことを吾が子であるとおっしゃっておられる。そして親が、吾が子を守るようにお釈迦さまは必ず私たち衆生を守って下さるとも。私たち子供・衆生は何事もお釈迦さまにお願いすれば大丈夫なのだと、このことを堅く信じきる。ここにこそ本当の救いと安らぎがあるのだ。」
お釈迦さまは「親」であり、私たちは「子」である。この世に於いてこれ以上の深いつながりはありません。この深いつながりを「絶対の信」で信じきったところに私たちが救われる世界があると日蓮聖人はお示しになっておられます。
時は流れ、社会は変わりましたが、今私たちは日蓮聖人の時代と同じ恐怖にさらされております。物は豊かになり生活そのものは七百年前より大きく進歩しましたが、天災、地災、争い、疫病等に無力であることは七百年前と変わりません。その私たちに対し「お釈迦さまの愛子である」とは、まことにありがたいおさとしです。そして同時に「信」が求められます。私は先に「神も佛も無い」という悪魔のささやきについてふれましたが、令和三年の今こそ、悪魔のささやきを跳ね返し、「お釈迦さまの愛子」であることを信じ、お題目に身をまかせるべきときと拝します。