菅野貫首写真

正法を行じて佛道を得る者 爪上の土より少なし(顕佛未来記)

文永十年五月、ご配流中の佐渡でおあらわしになられたみ教えであります。顕佛未来記という題名も聖人自らおつけになられました。「お釈迦さまはご自分亡きあとの衆生のために、自分の説いている教えをこのように遺し、この者が伝えなさいということを、妙法蓮華経にお示しになってなっておられます」日蓮聖人は自らの学問・修行によってこのことを体得理解され、お弟子、信徒の方々にお伝えになられたのがこの御書であります。
 本文中日蓮聖人は「お釈迦さまは沢山のみ教えを遺されたが末法の時代にまでそのお心をくだいてお説きになられたのは妙法蓮華経だけである。と述べておられる。このことを本当に理解しているのは、印度のお釈迦さま、中国の天台大師、日本の伝教大師、そして自分日蓮だけである。三つの国の四人の理解している人、三国四師」という事をお述べになられます。文中質問の形で「それは自己中心的ではないか」と問われます。それに対して「私は龍ノ口、佐渡まで多数の難を体験した。これはお釈迦さまご予言の通りである、だから私を師と言うのだ」とおおせになり、法華経で説かれる「法華経の行者」としてのご自覚をお示しになられます。そして今月紹介のみ教えです。
 「正法・法華経・お題目を身と口と意(心)で実践し、お釈迦さまの真意に至る人は少ない。例えてみれば、大地の土は多いけれども爪の上には土がほんの少ししか乗せることが出来ないと同じである」
つまり、末法という時代のために法華経は説かれたのであるが、その修行法として大安心に至る行法としてお題目を説かれる人は仏教二千五百年の歴史の中で爪の上の土ほど少なく、私日蓮はその一人である。」というご教示であります。これほどの由来をもってお示しになられた南無妙法蓮華経のお題目を先師はこのように解説しておられます。
「人、地獄の心を起すときは則ち法界皆獄なり、佛心を起すときは則ち法界皆佛なりと了し、念念須らく佛界に住すべし。その佛界とは、南無妙法蓮華経と称するの心是れなり」
 江戸時代京都深草の慧明日燈上人が母君のために説かれたみ教えであります。「母上、あなたが日常生活で地獄の心を起されたとします。その時母上の身の廻りは皆地獄です。又母上が佛さまのような心を起されたとします。その時母上の廻りはみな佛さまです。では佛さまのような心とはどういう心だと思われますか。それは母上が一心に南無妙法蓮華経とお題目をお唱えしている時のお心、それが佛さまの境地だとお受けとめ下さい。理屈抜きで只ひたすらお題目をお唱えしている姿、それこそ佛さまのお姿、母上は佛さまさのですヨ。」  日燈上人が母君に述べられていることを解説しているうちに、私は亡き母を思い出し、同じことを母に言っておりました。そしてこれなら私も母も爪上の土になれる、と思い定めたみ教えであります。読者の皆さん一日一時でも爪上の土の境地に至ること行じられませんか。


合掌

日彰