菅野貫首写真

法華経に身をまかせ給うべし(諸法実相鈔)

「先のこと、今のこと、あれこれ考え思い悩むことを止め、法華経に我が身をまかせなさい。お題目に我が身の全てをおまかせし切った時、一日一日を全力で生き切った時、み佛の大光明があなたを照らすでありましょう。」

 今月の聖語は、文永十年五月、佐渡が島一の谷(いちのさわ)、今の本山妙照寺において、天台宗の僧侶で佐渡に配流されていた最蓮房にお与えになられたお手紙の一節であります。ちなみに最蓮房は日蓮聖人よりあとに許されて京都に帰りますが、身延山の日蓮聖人を訪ねて、お弟子となり名を日栄(日浄とも)と給わり、身延山の近く下山に住され、本国寺の開山となられます。最蓮房は苦悩の中に在りましたから、その苦しみを日蓮聖人が感じとられ、今月紹介のご教示となったのであります。
 「法華経に身をまかせなさい」
 最蓮房が、故あってとしか伝承されておりませんが〝何故自分が流罪に〟と悩みが深かったと拝されます。そして佐渡で日蓮聖人とのご縁、しかも深浅は別にして、思想上の事、最蓮房が日蓮聖人に救いを求められたのは当然の成りゆきでありました。日蓮聖人が本書をお与えになられるに当り、学問上の事、佛法の事、学僧としての修行の事等に数々のみ教えを示しておられ、本書は長文です。その中でも今回ご紹介のご教示は、一人最蓮房だけでなく、七百年後に生きる私たち弟子信者へのご教示でもあります。
 「人生は苦」いや「楽」もあるのですが、最蓮房だけでなく私たちも「苦」のことが気になります。そんな私たちでありますが『自分は佛さま、お題目に守られている』と心と体に感じた時、言いに言われぬ心の安らぎをいただくことが出来ます。この安らぎをいただくには、いくつかの条件があります。その第一は『佛さまは確かにおわします』と信じきること。ここが定まりませんと、次の全てのことが「半端」になってしまいます。第二は『自分は佛さまに守られている』と信じきること。自分のような者でも佛さまは守って下さるのかなどと考えるのではなく、「たしかに守られている」と全身全霊で受け止めることです。第三は『そういう自分であるから、これから先のことは全て佛さまにおまかせする』と心に定める。と申しましても、果報は寝て待て、ではあります。全身全霊全力で励み、努力し、その結果の全てを佛さまにおまかせする、ということであります。
ところで、私たちは全力投球で生きております。そんな私たちでありますが時に思いがけずに失敗することがあります。後になって失敗の源を考えてみますと、ほぼ百パーセント「自我―自分さえよければ」の心が入っていることに気づきます。相手のこと、佛さまのことを念頭においての仕事は必ず良い結果が得られます。み佛、お題目におまかせすることを、私はこのように拝受しております。


合掌

日彰