他の過(あやま)ちを責むる前に 己れの行いを自からに問うべし(法句経)
希(ねが)う事があり今月の聖語を法句経に求めました。法句経は詩のお経として知られ、近代では友松円諦先生の訳、最近では松原泰道老師の訳が有名でありますが、お二人の訳を参考に私の現代語訳として紹介させていただきました。
「他人(ひと)の行いについて、あれこれ言ったり、書いたりする前に、自分がこれまで何をしてきたか、どのような生き方をしてきたかを、胸に手を当て、目を閉じて自らの心に問いなさい」
友松先生は「他人の荒さがしに、務めるナ」と訳されました。又松原老師は「責むるなかれ」とお説きになっておられます。お二人の説法をもとに私は先の言葉とさせていただきました。
先般若い女性が、事実無根の心ない書きこみをSNS上に書かれ、その苦しみに耐えきれず自らの命を断ったと報じられました。何と悲しい事でしょうか、書き込んだ人はどう思っているのでしょう。私など第三者は、これで納まるのかと思っておりましたが、まったく逆、名前が知られないのをよいことに風潮は強まるばかりであります。いつの時代も自分の事を棚に上げて他人ことあれこれ言う人はいるものですが、昨今はそれがやたら多くなりました。これだけではありません、コロナウイルスと最前線で全身全霊で戦っておられる病院関係者への差別、いやがらせが家族・子供さんにまで及んでいると報じられ、悲しみより怒りの思いまでが出てきます。かく言う私は満八十三才、戦中戦後の不自由、物不足という悲惨な生活を体験してきましたが、当時の人々の心には思いやり、いたわりの気持ちがありました。その私の「目」から見ますと今の日本は座っていて何でも手に入り、それがあたり前になっております。その「品物」にどれほどの人の手がかかっているか、どれだけの苦労の上に出来上っているか、まったく気にかけません。食べるもの、着るもの、住む家だけではありません。電車もバスも会社も学校もあって当たり前です。そこに沢山の人々の努力のある事、私達は思いをはせ、感謝すべきだと思います。
そしてもう一つ考えてほしい事があります。「自分は過去に何をしてきたか」と自らを省る「反省の心」も又昨今忘れられております。自分の言いたい事だけを言い、それが相手に対し世間に対し、どう影響するのかなどまったく考えない方が多くなったと感じるのは私だけでありましょうか。
結びに、日蓮聖人は諸宗のご批判をなさいました。しかしその根底には「慈悲の心」がありました。『この人々を何としても救ってあげたい。成佛への道を歩ませてあげたいという温かい心。』その為には我が身に災難がふりかかってもよいという強い宗教的信念がありました。SNSで自分の名前が知られないことを隠れ蓑にしている人々とは次元の異なる方です。この事を念頭にあらためて「他の過ちを責むるなかれ、己れの行いを自らに問うべし」とかみしめていただきたく存じます。