法華経の文字を生身のみ佛に
お会いせしとおぼしめせ(四条金吾殿御返事)
今月ご紹介の聖語の原文をご紹介します。
「法華経の文字を拝見させ給うは、生身の釈迦如来に会い、参らせ給うと、おぼしめすべし」
妙法蓮華経を朝夕のおつとめで拝見、拝読させていただく、又、心の安らぎを求めて法華経を拝見させていただく。この時の法華経の文字の一字一字はみな、生きておられるお釈迦さま直々のお言葉、いや今私自身が直接お目にかかりお釈迦さまが直々にお話し下さっていると、受け止めなさい。
ご紹介の聖語をいつものように私の領解を加えてご紹介させていただきました。ところで私は本誌先月号で「お経を拝読するということは霊鷲山におけるお釈迦さま法華経ご説法の御席に自分も出席させていただいていると思い定めること」とご教示下さった亡き師匠の言葉を紹介いたしましたが、実は今月ご紹介の聖語とまったく同じ内容のご教示なのであります。
一つの例を申し上げます。読者の方々の中には毎朝お佛壇の前で方便品、お自我偈を拝読なさる方がおられると思います。その方便品第ニ「爾時世尊、従三昧安祥 而起、告舎利弗」云々、おなじみのはじまりです。多分に暗誦なさってすらすらの方が多いと思いますが、このお経文を
「爾の時に世尊(せそん)、三昧(さんまい)より安祥(あんじょう)として起(た)って、舎利弗(しゃりほつ)に告げたまわく」
と訓読でお読みすると、受け止め方が変ります。更に
「お釈迦さまは、序品第一に於いては、ひと言もおおせにならず、静かに禅定三昧の境地にひたっておられました。(この間に幾つかの場面がありますが、ここでは述べません)そして方便品に入り、お釈迦さまは禅定三昧の境地から静かにお立ちになられ、沢山のお弟子、信者さんの中から智慧第一と言われた十大弟子のお一人舎利弗尊者を指名されてお告げになられます。「私と同じ大安心の境地に至るには智慧だけでは至ることが出来ません。〝唯だ佛と佛〟私釈迦牟尼佛の〝佛性〟とそなえた舎利弗の〝佛性〟が一体となって、はじめて大安心の境地に至ることが出来るのです、とおおせになられます。そしてお悟りの第二番目は舎利弗尊者になられるのです」
少々長くなりましたが、なじみ深く、ややもするとすらすらと拝読している方便品にはここまでの深い謂れのあることを知っていただいた上で、朝のお勤めをしていただきますと今少しおつとめの心に重みが出てくると思うのですが如何でしょうか。そしてもう一つ、「告舎利弗」をあなたご自身とお受け止めになられたら如何でしょうか、おそれ多いことですが私の体験で拝しますと「お釈迦さまから菅野日彰よ、よく聴きなさい」ということです。方便品が私菅野への〝よびかけ〟〝ご教示〟〝生身(しょうじん)の佛さまからのおさとし〟となり、朝のおつとめの場が佛さまと私との対面の場になります。その時のよろこび、法悦は口にも文字にも表すこと出来ません、感涙、感涙です。今月の聖語を私はこのようにいただいております。