法華経の寿量品にして
皆成佛する也(佐渡御書)
「私たち凡夫が、お釈迦さま、日蓮聖人と同じ、大安心の境地に至るには、妙法蓮華経の第十六番、如来寿量品で説かれている南無妙法蓮華経の五字七字を信じきり心と身にしっかりと納めること、お題目を身・口・意(心)でしっかりお唱えし法悦の境地に常住すること。それが法華経による成佛なのである」
文永九年(一二七二)三月二十日、佐渡から一門の人々、わけても富木常忍、四条金吾、十郎入道、桟敷の尼といった代表的信徒を通して、お弟子檀那一同に対しお示しになられたご教示であります。又時を同じくしていることから先号までご紹介してきました「開目抄」に準ずる御書でもあります。
教学的には第一段から第六段までと細部にわたってのご教示が示されておりますが、本誌の立場上第一段の中より、先にご紹介した一文を取りあげさせていただきました。と申しますのも、当時のお弟子信者の人々が抱いた疑問「日蓮聖人は度々ご難に遭っておられるが、本当に法華経お題目で成佛、大安心の境地に至ることが出来るのであろうか」「聖人が法華経の行者ならば、法華経のご守護神が何故守って下さらないのか」等々の疑問を持つ人々が出てきたために、その人々への念おし的ご教示として本書はしたためられました。
それは本文のあとの追申で「志ある人は寄合って本書を見て心慰め、一層の信仰心を養ってほしい。」と結ばれていることから伺い知ることが出来ます。
では、このことは当時の人々だけの事でありましょうか「否」であります。むしろ令和に生きる私たちへのご教示、励ましであると拝します。
「あなたは今、法華経、寿量品で説かれている、南無妙法蓮華経のお題目によって心の安らぎ、法の悦びを得ておりますか、何事にもゆるぎのない大安心の境地に至っておりますか、もし至っていないのであれば今一度お題目を、身と口と意(心)の三つ、三業に受持し直し、一日も早く大安心の境地に至って下さい」
今月の聖語を今日の私たち向けの言葉として再表現させていただきました。
本書でもう一つご紹介しておきたいことがあります、それは本書の第六段、結びの項における日蓮聖人ご自身の過去世に対する強い反省の御心であります。
「人々は過去におかした『因』によって今生の『苦』があるが、私日蓮の『苦』は、〝過去世に於て法華経を信じ切れなかった失によるものである?」
このご反省であります。さてそこで今の私達が素直に法華経、お題目の世界に住することが出来ないのは過去の如何なる罪障によるものなのでありましょうか。法華経を信じ、お題目をお唱えし、大安心の境地に至ることを目指す私たち、日蓮聖人の(ですら)なされた自身の過去に目を向けることも忘れてはならない修行の一つであること、心に納めておかなければいけない大事であります。