菅野貫首写真

南無妙法蓮華経と申す人をば
法華経の行者と申し候(十章鈔)

「み佛が全力をあげてお護り下さる〝法華経の行者〟とは心の底から法華経を信じ南無妙法蓮華経とお唱えする人のことである。社会的地位や学問のあるなしにかかわらず、ひたすらお唱えし、実行する人を法華経の行者と言うのである。」
 文永八年五月、聖人五十才鎌倉に於いておしたためになられた御文で、お相手は先月号でもご紹介しました三位房というお弟子です。この方は学職豊かな方でしたがみ佛の教えを頭で理解するタイプの方であったらしく、日蓮聖人度々のご注告にもかかわらずその真意が理解出来ず、最終的には聖人のもとを離れられます。ですから六老僧に入ることが出来ませんでした。もう一つ頭のきれる三位房にお出しになられたお手紙で〝地位や学問・頭で佛法を理解してはならない〟とお説きになっておられる。このことを念頭に今月ご紹介の聖語を拝していただきたく存じます。
 「法華経の行者」私たち法華経を信じお題目をお唱えする者にとって、最終的に至るべき境地であり、〝自分は法華経の行者である〟この境地に至りたい。この一念、お題目をお唱えしている人ならどなたも持っておられることであると拝します。しかし「法華経の行者日蓮聖人」と申し上げることは出来ても、自ら名のることなど到底出来ることではありません。
 では、私たちは「法華経の行者」になることは出来ないのか、「否」であります。日蓮聖人は今月拝読の御書に限らず常に「お題目をお唱えする者は法華経の行者である」とおおせであるからであります。ですから、お題目をお唱えしている私たちはすでに「法華経の行者」なのであります。でありますけれども「行者」と胸を張って言うことが出来ません。それは何かが「不足している」と、どなたもお感じになっておられるからだと思います。かく言う私もその一人であります。
 あらためてその「何か」を考えてみますと、お題目を唱えきれていない自分。行動が法華経の行者になりきれていない自分、等々なりきれていない自分ばかりが思い出されます。そんな私たちでありますけれども、私はそれでよいのだと拝しております。もし仮に「自分は法華経の行者である」と公言したとしたら如何でしようか、まさしく増長慢そのものであります。自分は未だ法華経の行者に成り切ってはいないけれども、その末端で生活させていただいている。一日二十四時間のうちほんの数時間だがその境地に至らせていただいて居る。そうした自己反省のくり返しの中で着実に行者としての実りはふくらんでいるのです。江戸時代の高僧慧明日燈上人は、母上のために
「一時(いっとき)相続すれば一時(いっとき)の佛、一日相続すれば一日の佛」
と絵ときしておられます。今日、一日私は何時(なんとき)佛になれたか、法華経の行者になって居られたか、自分自身を見つめる目、その目・心を養いなさい。私は今月の聖語をこのように拝受しております。


合掌

日彰