菅野貫首写真

南無妙法蓮華経と唱うるならば 悪道をまぬがるべし(法華題目抄)

 今月十月十三日は宗祖日蓮大聖人ご入滅七百三十七遠忌ご正当をおむかえいたします。
 池上のお山では全山、いや宗門をあげてご報恩の法要を営むと同時にそのご精神〝南無妙法蓮華経のおこころ〟を社会に弘め、後世にまで遺して参ります。今月ご紹介申し上げます御文はまさしくその精神をお示し下さっているご文章であります。
 この御手紙は文永三年(1266)正月六日千葉県清澄寺に於てしたためられました。大聖人四十五才の時であります。お与えになられたのは女性の信徒ということしかわかっておりませんが、ご真蹟は水戸久昌寺さんはじめ数ヶ寺に分かれて格護されております。(遺文辞典)
 ところで、大聖人がこのお手紙をおしたためになられる一年半前の文永元年十一月十一日、千葉県安房郡東条の郷で東条景信等よって襲撃されお弟子の鏡忍房とご信者の工藤吉隆が殉死なさいます、小松原のご法難であります。実はこの前年に大聖人は母君妙蓮尊儀を臨終からよみがえらせ四年間ご寿命をのばされるという一つの霊験をお示しになっておられ、土地の人々が大聖人を慕って大勢清澄や小湊のご自宅に集って来られ、それを妬んでの襲撃でありました。そして今月ご紹介のお手紙となるのであります。
 霊験あらたかな日蓮聖人にお目にかかりたいと集った人々に対しこのようによびかけられます。
 「夫(そ)れ佛道に入る根本は信を以(も)って本(もと)とす。」〝みなさん、佛さまのみ教えをご修行なさろうとするならまず、お釈迦さま、法華経、南無妙法蓮華経を信じきるということが第一の条件になりますヨ〟〝信じきるという信仰心がなければ如何にお題目をお唱えしてもそれは空題目となってしまうのです〟と信の大切さをお説きになられます。そして更に続けて
 「さればさせる解なくとも南無妙法蓮華経と唱うるならば悪道をまぬがるべし」〝八万巻もある仏教の経典を読まなくとも、沢山の学説を学ばなくとも、ともかく南無妙法蓮華経とお唱えするならば毎日の生活において悪しき行いや、地獄・餓鬼のこころに惑わされることはなくなり、佛さまと同じ大安心の境地に至ることが出来るのでありますよ〟とよびかけられるのであります。
 この時から時を経て七百余年、平成の現代には仏教書があふれ、メディアは〝何が本物か〟わけがわからなくなっているのが現状であります。そこで
 「信をもって事となす」「させる解なくとも南無妙法蓮華経と唱うるならば」のご教示がたよりとなります。信ずるとは、おまかせる、ということ。全てを佛さま、日蓮大聖人におまかせして、ひたすらお題目をお唱えする。
 この混沌とした現代社会において、何ものにもゆるがない大安心の境地に至るには、全てをおまかせしてお唱えする、このことしかない。私はこのように拝受しております。


合掌

日彰