菅野貫首写真

信なくして此の経を行ぜんは
手なくして宝山に入るが如し
(法蓮鈔)

「信じきる。という心を持たないで、法華経を拝読し、お題目をお唱えしてご修行しても、それは形だけ、声だけの修行でみ佛のお説きになっておられる大安心の境地に至ることは出来ない」

今月ご紹介申し上げている法蓮鈔というご妙判は、日蓮聖人のご直檀、曾谷教信法蓮入道にお与えになられたお手紙の一節であります。ちなみに曾谷氏は、現在の千葉県市川市曾谷を領地とする武家でありました。その入道が亡き父の十三回忌の供養のために法華経一部八巻、六万九千三百八十四文字を五回拝読、それだけに止まらず十三回忌に至るまで毎日、お自我偈一巻を拝読回向されたことを、亡父のご回向のお願いにあわせご供養の品をそえて日蓮聖人にご報告されます。日蓮聖人はその浄行をおほめになられ、貴殿こそが法華経の修行者、実践者であるとお認めになられた上で、今月ご紹介申し上げているご妙判となるのであります。このご教示には曾谷入道の法華経実践を他の信徒の方々への手本に、との日蓮聖人の強い思いが込められております。もちろん、末の世の私たちも含めてのことであります。

まず「信」ということについて申し上げなければなりません。「信」には二つあります。一つは私達の日常生活における「信」であります。私達の生活は全て「信ずる事」によって成り立っております。親子、夫婦、兄弟、姉妹、家族から始まって学校、病院、役所、会社等々みな「信」を基としております。ですが「新幹線よお前もか」ではありませんが、決して万全、絶対ではありません。気づいてみれば「仮の信」でありました。日常生活の全てが「仮の信」であるからこそ、その「信」を大切に大切にしなさいと佛教では説くのであります。これが第一の「信」であります。
 これに対しもう一つの「信」は、佛さま、日蓮聖人のお説きになられる「信」でありまして、この「信」は絶対に「裏切ることなく・くずれることのない信」―「絶対信」であります。それは、お釈迦さま、日蓮聖人が至られた悟り、大安心の境地のことであり、厳然たる事実であり、本物であります。この境地に私たちも到達することが出来ると説かれるのがみ佛の教えであり、日蓮聖人の説かれるお題目であります。私たちが至心に南無妙法蓮華経とお唱えすることによってその境地に至るのである。と日蓮聖人はお説きになられます。それには私たちが佛さま、日蓮聖人を「信じきる」ことが第一の条件である、この「信」なくしてお題目をお唱えしても〝手がない状態で宝の山に入っても、一つの宝も手にすることが出来ない〟のと同じであると、今月のことばで「信」の大切さをお説きになられるのであります。先師は「信」とは「佛さま、日蓮聖人におまかせすることである」と解説しておられますが「まかせきる信」「信じきる信」日蓮聖人がお求めになっておられるお心も実はここにあるのだと私は受けとめております。


合掌

日彰