菅野貫首写真

我が頭は父母の頭、我が足は
父母の足、我が十指は父母の十指、
我が口は父母の口なり。

教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ掌を合わせ、両目を開きて尊容を拝するに、歓喜身に余り心の苦しみ忽ちに息む。 我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり云々。是の如く観ずる時、無始の業障忽ちに消え、心性の妙蓮は忽ちに開き給う云々。
(忘持経事)

 十月十三日は宗祖日蓮大聖人第七百三十六遠忌ご祥当でございます。日蓮聖人がご両親に対し、なみなみならぬご孝心の方であられたこと。皆様ご承知のことと存じますが、聖人のご両親への思いをお偲び申し上げることこそが聖人へのご報恩と拝し、それには「忘持経事」の紹介が一番と考え今月の聖語とさせて頂いた次第であります。因にこのご書は建治三年、大聖人五十五才の時、身延山に九十才で亡くなられたご母堂のご遺骨をご納骨に参られた千葉県中山の富木常忍上人が、ご自分が持経として持っておられた法華経を忘れてゆかれたので、それをお返しする時に添えられたお手紙の一節であります。長文ではありませんがそれでも全文はご紹介出来ませんので、私の領解(信仰理解)をもってご紹介させていただきます。

『私、日連は教主釈尊のご尊像の御宝前に亡き母君のご遺骨を安置し法味を言上、ご回向申し上げました。あなたはその全身をもって合掌、唱題、礼拝され、あらためて教主釈迦牟尼世尊の尊容を拝された時、母君の即身成佛を覚信(さとり、納得、信じきる)することが出来、別離の苦しみの心から忽ちに安心の心に納まってゆくことを実感なされたことでしょう。そしてご自分の五体そのものが父母の五体そのもの、そのままであることを体感なされ、あらためて自分の頭は、足は、十指は、口は、いやその他の体の全てが父母からの給わりもの、父母そのものであると実感なされた。この思いに至られた時あなたは、自らの六根が清浄になり、佛性開顕、自ら持っている大安心の境地即ち心の蓮の花びらの美しさを悟られたのだと私日蓮は拝しております。これからも供に、ご修行に励みましょう。』

 富木上人は母上の成仏を覚信することによって自らの佛性の心蓮を開かれました。この信仰の大事をお手紙によって、又聖人自らの絵解きによって富木上人は小さなきづきから大きな安心〝これだ〟との覚信に至られるのであります。このことを第一番のご信者であられた富木上人に示されたということは、大聖人ご自身もご両親への思いが同じであったということ、ご両親の成佛が聖人の安心につながっていることを富木上人だからお説きになられたのだと私は拝します、そして末法万年の世に生きる私たちにもかくあるべしとご教示なさっておられるのだとも拝するのであります。


合掌

日彰