菅野貫首写真

法華経と申すは、手に取れば
その手やがて佛となる

法華経と申すは、手に取ればその手やがて佛と成る。口に唱うればその口即ち佛也。云々
法華経に曰く「若し法を聞くこと有らん者は一(人)として成佛せざること無し」云々、文の心は此の経を持つ人は、百人が百人ながら、千人は千人ながら一人もかけず佛になると申す文也。

(上野尼御前御返事)

「法華経というみ教えは、実に尊く、しかも私たち凡夫であっても理解体得出来る教えである。たとえてみると法華経を手にとればその手がやがてみ佛の手になり、口に唱えたならばその口がそのままみ佛の口となるのである云々
このことは法華経に”もし法華経を聞き実行する者がいたならば一人として佛にならない者はいない。”と説かれている。この文の意(こころ)は、法華経を聞き信ずる者は、百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人として欠けることなく佛になるということである」

 今月ご紹介申し上げております上野尼というお方は夫が上野郷、今の静岡県富士郡大宮町を知行地としておられたので通称を「上野どの」と呼ばれており日蓮聖人もそのようにお呼びされておりましたが、正式には南条兵衛七郎殿と申し上げ、北条時頼殿の近習でありました。この方が亡くなられたので上野殿尼御前と申し上げるのであります。もう一つ、尼御前の実弟は六老僧のお一人、日持聖人であるとも伝えられており、日蓮聖人の大信者、信仰心の篤いお方であられました。
 さて、そのご教示の”法華経を手にとればその手がみ佛の手となる”ということでありますが、どういうことかと申しますと、法華経即ち南無妙法蓮華経を至心にお唱えしながら手にしたものの全てが佛さまになるということ。このことを私の理解で述べさせていただきますと、私は今三十年近く使っている万年筆(私の分身的存在で外国製で義兄からの贈物)で本稿を執筆しておりますが、私の心は少しでもみ佛のお心、お祖師さまのお心、お題目のお心、に近づきたい、そしてその御心を読者の方々にお伝えしたいと念じて、ペンをにぎっております。それを表現するのが手中の万年筆、今万年筆も又私と同じように、少しでもお祖師さまに近づきたい、佛さまのおこころを表現したいと思っていてくれています。万年筆が佛さまのお役をつとめてくれているのです。変に思われるかも知れませんがこの万年筆で文章を書きますと文章がすすむのです。まさに”万年筆佛”なのであります。佛の手なるというご教示を私はこのように拝受しており、この”こころ”は自宅の”自動車佛・自転車佛”お台所の”お鍋佛・包丁佛”となるのであります。更にこの”こころ”は私達自らが身(からだ)の佛に、口(くち)の佛に、意(こころ)の佛になるよう励みなさい。と日蓮聖人は上野尼御前を通じて私たちによびかけておられる。私はこのように拝受しております。


合掌

日彰