佛道に入る根本は信をもって本とす
夫れに入る根本は信をもって本とす。五十二位の中には十信を本とす。十信の位には信心初なり。
たとい悟りなけれども信心あらん者は鈍根も正見の者なり。たとい悟りあれども信心なき者は誹謗闡提の者なり。
(法華題目抄)
『佛道修行に入る第一番の条件は、み仏を信じ、み仏のみ教え(経典)をみ仏のお言葉(金言)に絶対の信をおく、強い信仰心である。先師が示された仏道修行者が学ぶべき道すじ(道程)に五十二番までの順番がつけられているが、更に細かくわけた種類の信仰心の第一に〝信心〟の位が第一にあげられている。それほど〝信心〟は大切なのである。
たとえば、経文上の意味や理義をわきまえ悟ることが出来ないにしてもみ仏を強く信じきる信仰心さえあるならば、その人は正見(仏さまの物事の見方)の位に住する者なのである。これに反して、如何に知識や表面上の学問に秀い出で、経文の道理に達っしていても、信心の一点において欠けているならば逆にその人は法を謗り、不信(仏法を信じない)邪見(邪な考え方)に堕ちてしまっている者なのである。』
今月のご紹介申し上げました日蓮聖人の御文、法華題目抄は文永三年(一二六六)正月、聖人四十五才、清澄山でおしたためになられました。そのお相手は聖人の母君か、光日尼。(又は安房在住で、信仰心篤い女性の信者さん)であったと伝えられております。
大聖人は仏道修行に於いては信仰心、信じきる心が一番大事であると説かれております。信じきるとは第一にみ仏のお慈悲を信じきること、第二に法華経、お題目のお力を信じきること。第三に自分の心の奥底に在る仏さまと同じ安らぎの境地に至ることの出来る仏性(仏になれる力)の在ることを信じきりなさいとお説きになられておられます。
もう一つ大聖人は〝以信代慧〟(信仰心をもつことによって智慧の境地に至ることが出来る)ともおおせになっておいでであります(四信五品鈔)
一般的に佛教は〝智慧・悟りの宗教である〟と言われており、日蓮聖人のご教示と異なるように思われるかも知れません。では智慧とは何でしょうか、智慧は知識ではありません。佛の智慧、佛智のことで、決して一般的学問や一般的知識の世界のことではありません。この世の全てを見透し、悟られた佛智、佛さまの智慧、おさとりのことで在ります。かと言って経文の学習や修行法を学ぶことを否定するものではありません。否定はしませんけれども、その根底に〝信〟がなければならないとのお示しであります。これが智慧、佛智であります。江戸時代の国学者平田篤胤は〝法華経は薬の能書き〟と批判されました。信なき知識のいたるべき処と私は受けとめております。