魚の子は多けれども
魚の子は多けれども魚となるは少なく云々。人も又此の如し、菩提を発す人は多けれども退せずして、実の道に入る者は少なし
(松野殿御返事)
「魚は一度に沢山の卵を産み落とし、孵化して、稚魚となるけれども一人前に成長するのは数パーセントとという少なさである。多くは他の魚の餌となってしまうのである。人も又同じである。志を立て佛の道(佛道修行)を学ぶ者は多勢いるけれども、途中で挫折せず最後までやり遂げる者は少ないのである。佛の道を志す人はこのことを心中深く止めておくべきことである。」
私は昭和四十四年から足かけ四年お山の布教部に在職、池上誌の担当・信行会・朝がゆの会・学僧の指導等々、発足間もない布教部(当時は文化部と言ってました)の一員として出来ることは何でも勤めておりました。当時の金子貫首さま、酒井執事長(後の酒井貫首さま)のコンビは史上最強でした。私たち若い山務員にとっても仕事の上では厳しかったですが、それだけ全力投球出来ました。そんな中で私は一人の若いサラリーマン男性の信者さんと親しくなったのです。
Aさんとのみ申し上げますが、信行会・朝がゆの会に参加されたのが佛縁の始まりで、人生・信仰・お題目を語り合う仲になるまで時間はかからなかったと思います。当時私は浅草の妙音寺さんの岡崎上人と一緒に毎月四日唱題行と法話の会を開いておりました。(ちなみにこの会は今でもご子息が受け継がれ、毎月行っております。)そこにもAさんは出席され、更には私が主催しておりました梅森講という七面山登詣の会にも参加して下さいました。(もう一つの佛縁、当山の岩田経理部長さんも一緒に登詣した仲です。ですからお山の為にご夫婦で協力して下さっております。)私はその後、日蓮宗宗立谷中学寮々監に就任、お山を退職、住所も台東区谷中に移り約三十年間寮監職と住職、大学の非常勤の講師をする等々の為に心ならずもお山から離れており、Aさんとも疎遠になっておりました。
あれから四十年。私がお山に戻り「法話と唱題行の会」を開催、しかし内心は参加者がいるかどうか、十人いや二十人来て下さるかとビクビクものでしたが、一月二十二日第四金曜日午後六時、大堂下大広間に行ってビックリ、百人を超える参加者、私は合掌、目に涙でした。そんな私の背中に軽く触れる人、振り向いてビックリAさんでした。「お上人、いや貫首さま待ってましたヨ」私は二度ビックリ今度は涙ボロボロです。
Aさんは唱題行の会に毎月参加されてますが、目立つこと無く特別に私との縁を吹聴することなく、一会員としてごくごく普通にご修行されてます。もちろん当山の他の会にも「そ~と」参加され、ご自分の修行をしておられます。
日蓮聖人は「水の流れの如き信心」をおすすめになられましたが、Aさんの信仰はまさにこのことであります。四十年前に入信した一人の若き信仰者が「退せずして実の道に入っている姿」を私はAさんの上に見るのです。