法華経は 身読(実践)のお経です
法華経を余人の読み候は口ばかり、言葉ばかりは読めども心は読まず。心は読めども身に読まず。色心に二法、共にあそばされたるこそ貴く候へ
(土籠御書)
「世間一般の人々が法華経を読まれるのは、経文を口から声に発して読むことはするが、心の奥底で感動を持って読むことをしない。一歩進めて心で読むことまではしても身に読む、経文の説かれていることを自らの行動で実践するという読み方まで深めていない。色(身体)心(精神)二法(双方共)に読む、全身全霊を注ぎ込んで読む。この読み方こそが真の法華経の読み方なのである。」
今月ご紹介申し上げた土籠御書は、文永八年(一二七一)日蓮聖人ご自身が佐渡ご配流という極限の状態にありながら、お弟子の日朗聖人方が鎌倉の土籠に在ることを労わられてのお手紙であります。日蓮聖人は
「日蓮は明日佐渡の国へまかるなり。今宵の寒さにつけても籠のうちのありさま思いやられていたわしくこそ候」とお述べになられ、ご自身が置かれているお立場の厳しさを越えてお弟子の身を案じておられる聖人の御心をまずご理解下さい。その上でご紹介の一文をお読み頂きたいのです。お弟子の方々は何の罪も犯しておられませんが、お師匠様共々法華経を信じ全ての人々の平安、立正安国(法華経の精神で個人・家庭・社会・国家の平安を祈る)の精神を説いたことによる入籠です。(幕府は気に入らず政治犯にし罰したのです)このことを日蓮聖人は真の法華経の実践、法華経の色読と仰せになられてのであります。
この時から七百五十余年の後に生きる私たちにも「法華経の色読」が求められております。と申しましても平成の今日、人々が幸せになる道を説いたからと言って罪を受けることではありません。ですが今度は人々が耳を傾けて下さるかどうか、又強い反論が待ち受けているという別の「難」が待ち構えております。では私たちが法華経を「身読」するにはどうすれば良いか。「身読」の実例を申し上げること沢山ありますが、一例のみを申し上げますのでお汲み取り頂きたいと思います。お山では毎月第四金曜日の夜六時から「法話と唱題行の会」を行い百余名の方々がご参加下さり「安心した」「心が晴れた」皆様悦んで下さっております。お題目のお力(法力)お祖師様のご加護(仏力)そして参加の方々の唱題(信力)これが一体となっての結実であります。ここでご自分が「よかった」で終わってはお題目の真のご加護は頂けません。一人でも他の人にこの悦びを伝え、その方々にも法華経の悦びを分け与えてあげる。ここまで行ってはじめて法華経を体で読む「身読」になるのです。言論の自由が保障されている現代、私たちの出来る「身読」を私はこのように拝受しております。どうぞあなたの「ひと声」をお待ちしております。