成佛への道は法華経しかありません

法華経の悟(さとり)と申すは易行(いぎょう)の中の易行也。只(ただ)五戒(ごかい)の身を押(おさ)へて佛因と云(いう)事也。五戒の我体は即身成仏とも云う也。
(戒体即身成仏義)
『八万四千の法門と伝えられている教主釈尊のみ教えの中で、法華経のみ教えだけが最も心安らかに悟り、大安心の境地(成佛)に至る道である。諸経が色々な条件をつけているのに対し、法華経は日常の戒め、たとえば、うそを言わない、暴力をふるわないと云ったことを守ることによって悟りの世界に入ることが出来る。このことを即身成仏、生活のままで佛の境地に至る、と云うのである。』


 今回ご紹介しました日蓮聖人の御書、戒体即身成仏義は、御年21歳、仁治3年(1242)清澄寺に於いて著された若き学僧蓮長法師(日蓮聖人)の論文であります。
ちなみに。この時日蓮聖人は鎌倉での勉学を終えられ、ここから学問の中心地、京都比叡山遊学に向かわれる中間にあたっておられ、建長5年(1253)4月28日の立教開宗に先立つこと12年ということになります。
 この時の日蓮聖人は、さまざまな条件のついた難行苦行のお経、娑婆は苦の世界だから死後十万億土の佛によって救われるしか道はないというお経ではなく、日常の正しい生活、例えば、うそをつかない。他人の物を盗まない。人を傷つけない。悪酒を飲まない。邪淫を行わない(五戒)と云った生活を行っていれば、特別なことを行わなくとも、自然に佛の道に入り、成佛する。(大安心の境地に至る)と説く法華経のみ教えこそがお釈迦さまの真実のみ教えであると結論づけられました。この結論の正しさを証明するために京都遊学は必要でありました。
ちなみにこの時代、京都に出ても人脈とお金のない人は僧兵から始めなければなりません。その点、日蓮聖人はお師匠様の導善御坊の人脈(その他もありました)、領家の尼とおっしゃる親戚筋の女性からの援助によって、横川の定光院(現在名)から学問のみの修行僧として12年間勉学に励まれるのです。
この間、日蓮聖人は比叡山一山に止まることなく京都、奈良の諸大寺を訪ね勉強されました。
求めることは只一つ。今生に生活したままで佛さまと同じ境地に至る道、それを説いたお経はないか。この一点だけであります。私が拝しますに、この時の日蓮聖人の頭には、先にご紹介した法華経第一ではなく、まったくのゼロからの出発であったであろうことであります。
 しかし12年後『やっぱり法華経だ。加えて南無妙法蓮華経とお唱えすることこそが唯一の道である』と結論づけられます。今月ご紹介しました若き学僧蓮長法師(日蓮聖人)のよびかけが重さを増してくるのです。

合掌

日彰