宗祖四大法難
松葉ヶ谷法難会

 八月二十七日(土)の午前十一時より、大堂に於いて宗祖四大法難のひとつ、松葉ヶ谷法難会が菅野日彰貫首大導師のもと営まれました。
 法難とは弾圧や迫害など仏法にとっての災難を指します。日蓮聖人はご生涯の中で四度の大きな法難に遭われておりますが、法華経に「この教えを広める者には難が降りかかる」と説かれる点を上げて「迫害を受けるのは法華経を弘める者の証」と受け止められます。中でも松葉ヶ谷法難は初めての大難で、日蓮聖人が鎌倉松葉ヶ谷に結ばれたご草庵を焼き討ちされた法難です。
 文応元年(一二六〇)七月十六日、日蓮聖人は鎌倉幕府の最高権力者であった五代執権・北条時頼に対し、宿屋(やどや)入道(にゅうどう)の屋敷(現:光則寺)にて入道を介して『立正安国論』を奏上します。頻発する数々の災害は全て幕府が法華経を中心とした政治を行わないためと指摘しました。結果、幕府から大きな反発を受け、八月二十七日の夜中に日蓮聖人を亡き者にしようと軍勢が襲いかかり松葉ヶ谷の草庵は焼かれてしまいます。この時、不思議にも白い猿が日蓮聖人を導き現在のお猿(さる)畠(ばたけ)法性寺へ避難することができました。
 法要に本門寺信行会の会員が参列し、共に読経と唱題を捧げて日蓮聖人の御遺徳を讃えました。

  養珠院殿妙紹日心大姉
三百七十回忌法要

 池上本門寺はかつて徳川家の庇護を受け大きく発展しました。心性院日遠聖人(身延山久遠寺第二十二世・池上本門寺第十六世)に師事した徳川家康の側室・お万の方(養珠(ようじゅ)院殿(いんでん)妙紹(みょうしょう)日心(にっしん)大姉(だいし))によるところが大きく、大奥からの篤い信仰を集めました。
 お万の方は水戸徳川家の祖・頼房と紀州徳川家の祖・頼宣を産み、後に頼宣は加藤清正の二女(瑶林院)を正室に迎えます。家康の没後は菩提を弔うために身延山久遠寺で千部会を営み、女人禁制であった七面山への登詣を果たします。承応二年八月二十一日、七十七歳でその生涯を閉じます。
 本年、三百七十回忌を迎えるにあたり、この功労を讃えて八月二十一日(日)午後二時より木内隆志執事長導師のもと法要が営まれました。法要後は紀州徳川家墓所へ参拝し、報恩の誠を捧げました。なお三浦市延寿寺の法華和讃会が参列し、墓前で和讃を奉唱しました。

  日蓮宗僧風林
沙弥校(しゃみこう)

 例年は七月二十六日から八月一日まで一週間かけて行われる寺院子弟を対象とした沙弥校が開催されました。本年は新型感染症対策の観点から八月二十六の一日で開催されました。
 中学一年生、小学六年生、小学四年生の計三名が参加、朝九時に集合し白衣に着替えて気持ちを引き締めると、菅野日彰導師のもと大堂にて開校式を行いました。その後、菅野貫首が子供たちへ訓話を行い「お坊さんの基礎はお経と布教と掃除だよ」と分かりやすい言葉で伝えていました。参加した子供たちは頷きながら聞き入り、熱心に鉛筆を走らせていました。
 昼食に引き続き、仏前所作、読経練習を行い、御廟所前での唱題行を経て、午後五時に本殿において修了式を行い全日程を無事に修了しました。

  ご苦労様でした
八月の団体参拝

  • なし