東日本大震災
第七回忌追悼法要
深草元政聖人
三五〇遠忌追善法要
三月十五日(水)、本殿に於いて京都深草瑞光寺開山元政聖人の三五〇遠忌追善法要が菅野貫首様導師のもと営まれた。元政聖人は池上・比企谷両山第十九世僧那院日豊聖人の弟子であり、天台学や宗学に通じ、後には法華律を提唱した宗門史上にも名高い名僧で、儒学・漢学・古典などに通じ漢詩・和歌をもって世に知られた近世前期を代表する文人でもあった。あらためてご遺徳を讃え、ここに表白文を掲載する。
表白文
慎み敬って勧請し奉る
南無輪円具足未曾有大曼荼羅御本尊
南無久遠実成本師釈迦牟尼佛
南無平等大慧一乗妙法蓮華経
南無末法唱導師高祖日蓮大菩薩
六中九老僧等 宗門能弘之先師
悉皆慈悲 影現道場の御宝前に於て
当山一山の大衆並に有縁の各上人と共に、草山元政大和尚第三百五十遠忌報恩の法味を言上し、もって大和尚の指南教化に謝し奉る。
伏して惟るに草山元政大和尚、元和九年二月二十三日、父者毛利輝元の旧臣石井元好、母者妙種女の五男二女の末子として京都に生をうけらる。十三才にして元政と改名、彦根藩主直孝公に仕えるも十九才にて発病、療養中泉州和気・妙泉寺に詣で、祖師像を拝し三つの誓願をおこさる。一に必ず出家す、二に父母に孝養、三に天台三大部の会通これ也
二十六才彦根藩を致仕、京都妙顕寺第十六世、後に池上本門寺第十九世、僧那院日豊聖人について剃髪染衣、字は元政、諱を日政、鷲峰院と号さる。日豊上人の膝下に在りて、日蓮門下の教学、天台教学を学び和尚の発願父母の孝養のみ、和尚生涯をかけてこの誓いを守らる。正に聖祖門下の規範なり。後学の我等和尚止住の地にならい、草山元政聖人、元政大和尚と尊称す。
和尚三十六才、父君逝去、三十七才、父君の遺骨を首にかけ身延山に参詣、帰路池上に立ちよらる。恩師日豊上人面会のためなり。江戸に在ること十余日、子弟の旧恩ここにあたたまる。その心境を
『人の世、知音少なれり、師を追うて、ここに再び尋ぬ、今宵、池上の月、旧き依って天心を照す』と詠(よま)る。
本日第三百五十遠忌を相営む佛縁ここにあり、加えて和尚の教風は我等が求道の指針、南谷檀林以来当山の修行僧及び山務員全員の教誡なり。今般和尚ご遠忌の発願者たる大神隆盛寺萩原是正上人も又この教誡に導かれたる一人なり。上人、和尚の墨跡多数格護さるるは、この教誡を後世に遺さんがための一大浄行といいつべし。
寛文七年十二月六日、母君妙種尼を八十七才にて霊山に送り、聖寛文八年二月十八日、弟子慧明日燈上人に後事を託し、安祥として示寂さる。世寿四十六才の若さなり。
和尚草山要路起信第一に、龍樹菩薩の教示を引用して示して曰く、
「佛の言く、信を以って手と為す。人に手無きは宝山の中に入れども所有(うるところ)なきが如し、不信の人は佛法の宝山に入れどもすべてに得る所無し、云々。空しく頭を剃らず当に知るべし、出家の者はすでに宝の山に入る。年を空しくして帰らんや」と。小衲大崎に学びしおり、恩師茂田井教亨先生より草山要路の講義を受け「全文和尚の金言と拝受すべし」のご教示をたまわる。わけても先の結文「出家たる者法華経の宝の山に入りてむなしく帰らんや」は八十路にして今なお求め続けし教誡なり。本日佛縁によりて和尚の三百五十遠忌の導師を相つとむる法縁をたまわる。感激きわまりなし。
願くは和尚、末法極悪の現世、平成の世に求道せる我等を導きたまわんことを。
経曰、是の人佛道に於て 決定して疑いあることなし。
乃至法界 平等利益
南無妙法蓮華経
維時平成二十九年三月十五日
大本山池上本門寺第八十三世
菅野日彰 敬白
新たなる一歩
学僧卒寮式/学僧上山式
ご先祖様へのごあいさつ
春のお彼岸法要
お釈迦様の誕生を祝う
春まつり
ご苦労様でした
3月の団体参拝
- 5日 仏所護念会北地区 41名
- 29日 岡山県 延友会 51名