有り難さに気付く
「〇〇離れ」という表現がありますが、これを調べてみましたところ「「酒離れ」「タバコ離れ」「新聞離れ」「テレビ離れ」「映画離れ」「旅行離れ」「クルマ離れ」「結婚離れ」「ブランド離れ」「ゴルフ離れ」「ギャンブル離れ」「コンビニ離れ」「活字離れ」「海離れ」「年賀状離れ」「選挙離れ」「米離れ」など、更には耳をふさぎたくなりますが「寺離れ」という言い回しもあり、多くの「〇〇離れ」がありました。
その中でも「米離れ」といわれている日本に於いて今夏、過熱気味に報道されていましたのが「令和の米騒動」です。
地域によって様々であったようですが、私の住む近隣スーパーにお米は陳列されていませんでした。パックごはんやお粥などの加工米製品についても品薄で1家族2パックまでと制限がかけられる状態でした。
こうした騒動の下では余計に手に入れたくなる、欲しくなってしまうという衝動に駆られるのが人の性であり、それが煩悩というものです。
ごはん(米)を主食に副食(おかず)、汁物があるという一汁一菜は奈良時代に確立され、更に平安時代の貴族の食膳は、高杯に高盛りのごはん、まわりにおかずのお皿を並べるのが主流となり、それを「あわせ」といいました。この「あわせ」の数が多いことから「かずもの」と呼ばれ、やがて「おかず」と言うようになったそうです。
日蓮宗では食前の作法として食法(じきほう)をお唱えします。その中に「たとえ一滴の水、一粒(いちりゅう)の米も功徳と辛苦によらざることなし」とあります。
私たちが生きるということは、その分の食材の命を頂戴しているということに繋がります。そしてその食材をいただくには、汗水たらして育んだ人たちの過程があります。
そこに「ある」ということが当然のことというのではなく、「ある」ということに「有り難い」という感謝の気持ちをもっていただけましたら尊いことでございます。