涙の引導文
引導を渡す際に私はできる限り故人の人柄や出来事など,過去のふれあいを思い返しながら、そしてこれからは仏としてご遺族を温かく見守ってください、との願いも込めて拝読するようにしています。
しかし過去に私は万感胸に迫る思いで涙を流しながら引導を渡させていただいたことがあります。
その方の葬儀中に引導文を読みはじめようとご遺影に向き合った瞬間、突然その方の私に対する言葉を思い出し、感謝の念とお別れの寂しさがこみ上げてきて涙が止まらなくなってしまったのです。
その方の言葉とは、自坊の新本堂建立に関する最終決断を行う会議中にその方が発せられた言葉です。その時、総代、建設委員そして建設業者が種々の課題、特に資金計画などについて協議を行っていました。その場の雰囲気は非常に重々しく、寺にとって、総代にとって、もちろん私にとりましても人生最大の決断を迫られていた時でした。
そのような時にその方は突然立ち上がり、
「皆さん、住職を信じましょう。いや、住職を信じなければいけません。そして自分たちの信仰心を以て、皆が力を合わせて新本堂を建てましょう。」
と、おっしゃったのです。
その言葉はその場にいるすべての方々に、不安と希望は住職に委ね事業を前進させる力強い決意をもたらしたのです。そして檀家一人一人が信仰の要である菩提寺本堂の再建を通して信仰を深め、なによりも人を信じる事の大切さに全員が気づかされた発言でありました。
「人を信じる」ことは、家族でも学校や職場でも友人との付き合いでも大切なことです。その方は、菩提寺と檀家の関係でも同様である、そして「信仰」は人を信じることからはじまり、菩提寺の住職である私への信頼を心からの言葉と態度で示してくださったのです。
私の涙でぬれたそのときの引導文は、私の手でその方の棺に納めました。
新本堂も落成から10年以上が経過し、その方の十三回忌法要も営まれました。
人を信じる心、親和の精神を大切にする事は、その方が私に授けてくれたお経本です。