復歴 長遠院日樹上人

長遠院日樹上人は下総国の飯高檀林・中村檀林で学業を積み、飯高檀林7世の化主となり、元和5年(1619年)、池上本門寺に入寺し復興に努め、特に宗祖御尊像を安置されている大堂を再建復興を遂げる等多方面において功績のある方でした。妙覚寺の日奥上人に同調し不受不施を主張。受布施派の身延山久遠寺と激しく対立しました。寛永7年(1630年)、江戸城で行われた受布施派と不受不施派との対論(身池対論)で不受不施派は敗者となり、日樹上人は信濃国伊那郡飯田(現長野県飯田市)に流罪となってしまします。
 しかしながら、昭和6年(1931年)本門寺第七十四世酒井日慎上人の代に、日樹上人の復歴を決定し、第七十七世石川日教上人の代より毎年ご命日にあわせて墓所を参拝するようになりました。
流罪後一年程で入寂されますが、僅かな間にもかかわらず地元の多くの人々と深く関わり上人の徳は今日まで延々と語り継がれることとなりました。。現在に於いても「池上古蹟保存会」として上人の墓所を護持し厚い信仰を集めていることに大変驚かされます。
余談ですが、地元で採れる「おしょうにん」と呼ばれる黒く大きなキノコは日樹上人に由来するようです。大変美味しいそうです。

合掌

山村栄慎