いつも本仏の中にいる私たち

 ヨーロッパのカッコー鳥の行動に関する話です。この鳥の雛は多種の鳥によって卵からかえされ、育てられます。親の姿は一度も見ずに育ちます。夏の終わり近く、親鳥は冬期の棲息地である南アフリカへ渡り、それから約一ヶ月後、カッコーの雛は集団を形成してアフリカの同じ場所へ渡り、親鳥と一緒になるのです。雛は自分が渡り鳥であること、渡る時期、渡る方向、最終目的地を本能的に知っており、自分と同じ雛を本能的にに見分けて集まることが出来るのです。
ニューサイエンスはこういうよく考えてみれば不思議行動の根底に「形態形成場」の作用を想定しています。ある地域に新しいリアリティー(真実)に目覚めた人が出現すると、その途端に何らコミュニケーション手段を持たない各地の人々が同じ意識に目覚めることがありうる。つまりものすごく強くて、深くて、偉大な精神は、そのまわりに「形態形成場」という物理的な「場」を造って明らかに目に見えるような現象を起こしうる。その「場」の中に残像のように記憶の痕跡がとどまり、それは「形態共鳴」という形で他へ伝播しします。 お釈迦さまのような強くて、深くて、偉大な精神は、そのまわりに「形態形成場」という物理的な「場」を造って明らかに目に見えるような現象を起こてしまうという状況を序品第一は表現していると思えます。法華経の序品でのお釈迦様の三昧(瞑想)と次々に起きる不思議な出来ごとについて、このような視点で見てみと納得できるように思います。法華経は宇宙生成の根幹にかかわる、凄い世界を私たちに示してくれているのだということが法華経の序品でよく承知出来ます。
法華経の梵文原典の中に「仏教においては衆生を無上菩提(この上もない覚り)へと引導する教えであれば、それは何であれ全て釈尊の直説である」となっていて、人々を彼岸=覚りに向かわせるものはすべて正しいと明確に言っています。また別のところでは 「衆生を無上菩提へと引導する教えが説かれ続ける限り、釈尊は永遠にこの世に現存し、法を説き続けている」としています。無上菩提=覚りにいたる道筋がある限り人々は救われ、釈尊は永遠となり、私たちもまた本質のところでは永遠だということを言っています。まさに歴史性と肉体の有限性の煩わしさから解き放たれる思いです。法華経序品第一はそうした永遠の世界を解き明かしていく文字どうり序曲なのです。

合掌

野坂法行