
我が頭は父母の頭 我が足は父母の足なり(忘持経事)
今月ご紹介の聖語は、日蓮聖人大信者のお一人、千葉県中山の富木常忍入道殿にお与えになられたお手紙の一節であります。建治二年(1276)二月末日、富木入道殿の母君が九十歳の高齢でお亡くなりになられたので、翌三月、入道殿は母の遺骨を奉じ身延山に埋骨されます。ちなみに今日まで継承されている「身延山ご納骨」の法儀はこの一事と阿佛坊のご納骨が濫觴(らんしょう)(物事の始まり)と伝えられております。
この時入道殿はお経本を忘れて帰られた(それだけ安心、母の成仏を体得されたしるしでもあります)聖人は入道殿の御心を知りつつも入道殿のもとへ亡き母君の成仏と今後の心のあり方をお説きになられます。題名の「忘持経事」とはこの故をもってつけられました。
聖人は本文に於て
「我が頭は父母の頭。我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。たとえば種子(たね)と菓子(このみ)(実)と身と影との如し」
とお説きになられます。
「あなたは亡き母上に孝養を尽くされ、今身延山にそのお骨を埋葬なされた。これによって母上とのお別れと思っておられるかも知れないが、そうではないのです。まず鏡にあなたの顔を写してご覧なさい。父上・母上のお顔が浮かんできませんか。両方の足・十本の指。顔の真ん中の口はどうですか。あなたの体の中にご両親は厳然と宿っておられます。例えてみれば、種と実、自分の体とその影のようなものなのです。ご両親はあなたの体の中に生きておられます。」
富木入道ならずとも、親を亡くした者へお与えになられたお手紙であり、幾多の人がこのお手紙で救われたことでしょう。富木入道はこの御文を木版刷りにして人々に知らしめたとも伝えられ、時空を超えて私達に安らぎを与えてくださいます。
安らぎと申しますと、私も安らぎを与えていただいた一人であります。私事で恐縮ですが、私は大学二年の春、池上の地で修行中に母を五十六歳で霊山に送りました。中学一年で出家、以来八年間に一度しか帰省していない私にとって人生最大の苦悩でありました。四十九日を勤めて帰山、大学の恩師茂田井教享教授がご自坊堀之内(今は八王子)最教寺で母の百ヶ日忌を同級生と共に営んでくださった時、先生が私にお読みなさいとご教示くださったのが忘持経事、今月の聖語でありました。私は八歳で父も亡くしておりますから尚更でした。この御文に加えて、母の遺体を前に妹が「母さんは兄さんが出家されたその日から毎日三食陰膳をして兄さんの無事を祈っていたのヨ」の一言。まさしく父母の十指、父母の頭、父母の体を実感したことであり、私に生きる力を与えて下さったご教示であります。
「我が身に遺る父母の体」大切に大切にして参りたいご教示であります。