菅野貫首写真

日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめ
佛に成る血脈を継がしめんとす(生死一大事血脈鈔)

 文永九年(一二七二)二月十一日、佐渡塚原三昧堂において、故あって佐渡に流されていた天台宗の僧(後に聖人のお弟子になられたと伝えられております)最蓮房にお与えになられたお手紙の一節を今月はご紹介させていただきます。今月のことばのご説明をする前にこのお手紙の大事な内容について、私の理解するところを加えて少しご紹介いたします。
 「私たちがこの世に生をいただいて、人生を終るまでの全ては法華経のみ教えの中のことである。久遠の佛さまであるお釈迦さま、妙法蓮華経・お題目、そして私たち一切衆生、この三者が一体である、区別がないと領解(信仰的理解)し、ひたすら唱題修行すること、その唱題修行の中にこそ生死が一体となった大安心の境地が存在するのである」
 もう一つ。唱題三昧ということが先師のみ教えにございます。静かに正座すること、このことが「静」であることはどなたもご理解出来ると思います。これに対し唱題となりますと「動」とどなたも思われると思います。たしかに声を出すのですから「動」にちがいありませんが、南無妙法蓮華経のお題目を「唱えて唱えて唱えきった時」実は、そこに「静」の世界があるのです。私は「動の中の静」と申し上げておりますが、「動の中の静」の境地を味わせていただいた時、そこには「法悦」しかありません。当山で毎月行っている唱題行もこの「動の中の静」「法悦」を味わっていっていただくためのご修行なのでございます。
 以上のことをお心にとどめて、いただき今月のことばの私の領解を読んでいただきたく存じます。
 「私日蓮は、この佐渡に配流の身となってあらためて、私が今日まで弘めてきた法華経お題目のこころが正しかったこと、それはまさしく、久遠実成の仏さまが末法の衆生救済のために遺されたみ教えの実践であったという確信を持つことが出来た。
 この決意のもと、あらためて日本国の一切の人々に法華経お題目を信じてもらい、佛さま発願の道すじ(血脈)を受け止めていただきたいと願うばかりである。」
 更に日蓮聖人は
「日蓮が弟子檀那は水魚の思い、水と魚が一体であるように、自分だ他人だとの区別を無くし自分と他人とが一体となった心で南無妙法蓮華経とお唱えなさり、そのこころ、その修行の姿を生死一大事の血脈(生と死が一体となった大安心の境地)と言うのである」と 結んでおられます。
 九月は秋のお彼岸、ご先祖さまはじめ、亡き方々のご回向はもちろんでありますが、自らの安心、佛性開顕に心をそそぐ一週間であってほしいと願ってやみません。


合掌

日彰