瞋(いか)りの杖を捨(す)てよ

汝、佛にならんと思わば慢のはたほこを倒し、瞋りの杖を捨て偏に一乗に帰すべし。
名聞、名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり
ああ、恥ずべし恥ずべし、恐るべ恐るべし。

(持妙法華問答抄)

「そなたが佛さまと同じ境地、大安心の境地に至り、諸の苦悩から脱っしたいと希(ねが)うのであれば、まず「おれが、わたしが」というおごり、高ぶり、わがままの気持を捨てるがよい。もう一つ、自分の思うようにならぬからと言って瞋(いか)る、その心も捨て去ることである。
そしてただひたすら法華経を信じ、お題目を至心にお唱えする。唱題受持の生活を持ちなさい。これが佛の境地に至る唯一の道である。
思うてみよ、短いこの生での出世や地位の向上などと云うものはこの世のひとときの飾りに過ぎない。又自分の我を通そうといくら瞋りの声をあげたとしても、それは他の人との争いになるだけ、いや死後にまでも引きずりこむ苦悩となるだけである。このような将来の苦の因をつくる行為をしてはならない。世の人々はこのことに気づかず目を瞋らし、手を振り上げているが、なんと恥ずかしいことであろうか、将来を思うとまことに恐ろしいかぎりである。」


いかり・むさぼり・おろか、佛さまはこの三つの心のことを私達が陥りやすい心、物事の判断を狂わす心、三つの毒と仰せになり常に心に止めておくようご注意なさっておられます。そのご忠告を日蓮聖人はご信者の人々に佛道修行の大条件とてして遺されました。今月ご紹介申し上げる「持妙法華問答抄」は先に申し上げた三毒を初めとして、佛教の根本理念を優しくお説きになられた御書として、そのみ教えは大切に伝承されてきましたが、残念ながら日蓮聖人のご直筆は遺されておりません。しかしながらその内容の深さから一般檀信徒にお与えになられた御文として今日まで伝えられております。
 「瞋りの杖を捨てよ」今の日本人、平成に生きる私達へのぴったりのご忠告であります。と申しましても、かく言う私自身宗立学寮の寮監でありました時、学生諸君から「瞬間湯沸器」というあだ名をもらい、今日でも卒業できずにいる私としましては少々、いや多分に気が引けるのですが、自戒を含めてのこととしてお読み頂ければと存じます。
 先師のご教訓に「叱るべし、怒るべからず」というみ教えがあります。その心は〝人は教えられて成長してゆくもの、その教えの中で叱ることは大事な教育条件の一つである、叱ることによって相手は成長してゆくものである。それが怒るに変わると自分の感情が入り、大切な教えを見失ってしまうのである〟ということであります。改めてこのみ教えを親子・家庭・学校・社会等々に当てはめてみますと怒るの方が多いように感じるのは私一人でありましょうか。そして〝怒る〟を恐れて〝叱る〟までを失ってしまっているのでは、とも思い至ります。み佛、大聖人のご教示の深さに合掌致します。


合掌

日彰